火曜日朝一の飛行機で帯広に行き、水曜日は往復6時間かけて浦河まで遠征し、駆け足で2泊3日の調査に出かけた。久しぶりに師匠の取材に同行させて頂き、帯広と浦河、という、日本の地域精神保健を変えた二大先進地に出かけ、先駆者達のお話に耳を傾けたのだ。この二つの先進地の最大のポイント、それは「当事者の声に基づいた支援づくり」である。精神病という病のつらさ、だけでなく、この病を持つことによって様々な生活のしづらさ、人間関係のしんどさを抱えて生きている人に、どれだけ寄り添い、そこから支援を展開できるのか。この二つの地域はそのことに、真正面から向き合ってきた。そこで向き合った内容の一つに、前段で書いた僕の怒りと共通する怒りがあるのではないか、と思う。では、どういう点で、精神病者の方が感じたであろう怒りと僕の今の怒りが共通しているのか。それは、「理不尽なこと」というカテゴリーだと思われる。
突如襲った絶望的な現実。しかも、対処する術が、その時点でない。ただそのことを「諦め」るしかない。回避したり、被害を最小化する術もあったかもしれないが、この状態になった後にそう言われても、どうしようもない。怒りの持って行きようもない。とにかく、閉ざされた空間で、ただただ諦めて待つしかない。
ただ、僕の場合、この待つということも、所詮1,2時間程度の、終わりがある「待つ」である。この1時間で、1キロも進んでいないこと、そして抜ける術がないこと自体は本当に腹立たしいが、後1時間もすれば抜けれる(はず)である。終わりが見えている。しかし、精神病の場合、一過性のものではない。いつまで持続するかわからない不安。ずっと奈落の底に落ちていくのではないかという焦燥。以前の自分に戻ることが出来ないのではないかという絶望。それらが合わさった怒り。そんな理不尽の渦の中に放り込まれたのなら、どれほど激しく怒り、どれほど深く絶望するだろう、と考えてみる。それで僕自身の怒りが収まる訳ではない。だが、こんなもんじゃない怒り、とはどれほどのものか、と思うとき、その怒りに寄り添うことの意味合いをすごく感じてしまうのだ。
僕が今、ここで相当に怒っていることの理由として、お腹がすいていること(なんせもう夜10時だ)、疲れていること(二泊三日の強行軍の疲れが一気に出ている)、抜け出せないこと(バスから降りれない)、1人でいることなどが挙げられる。精神疾患でも、病気から抜け出せないことだけでなく、不眠や幻聴などで疲れがたまっていること、人間関係にひびが入って1人でいる孤独、働けなくなってしまった場合にはそれに加えて食事も含めた生活の維持に関する不安も重なるだろう。これらの不安が怒りに、そしてやがては絶望へと結びつくのだ。
では、この状態を変えるために、どうすればいいのか。まず、「抜け出すこと」は容易ではない。そもそも、抜け出せないことから、この怒りや絶望は始まっているのだ。では、現実的な対処として、お腹を満たしてほしい、それが無理なら(確かに鞄の中には弁当はない)、まずは「大変だねぇ」と共感してほしい。そう思っていたら、妻から電話があり、愚痴をぶちまけ、多少はすっきりした。そう、浦河も帯広も、精神障害者のしんどい現実に、まずは寄り添い、共感するところからスタートしていた、と今回の取材の中でわかったのである。(疲れているから、少し強引なつなぎに見えるかもしれないが)
セルフヘルプグループ研究の大家の上智大学の岡知史先生は、その著書の中で、セルフヘルプグループの三段階を説明している。同じ悩みや苦しみを持つ当事者同士が集まって、まず自分たちのしんどさを「わかちあい」できることが、出発点だ。その中で、苦しみを対象化し、そこから「ひとりだち」するきっかけが出来てくる。その過程の中で、苦しさや怒り、絶望や諦めといったものから「ときはなち」がうまれる。また、自身を押さえつけていた環境を変えようと、「ときはなち」は社会変革へも向かう。浦河や帯広でみたことも、このセルフヘルプグループの動きそのものであった、とも言える。絶望や怒りの渦の中にいる当事者であっても、同じ渦の中にいるもの同士なら、その苦しさや怒りを含めて共感(=わかちあい)が出来る、というのが、このセルフヘルプグループの最大の魅力であり、入口なのだ。
今、石和の交差点の大渋滞をようやく抜けだし、次は横根の信号までの混雑でまだのろのろ運転だが、多少動き始めたバスの中で、タケバタにはこの怒りを同時期に共感し合う仲間はいない。だが、読み手のあなたと「わかちあう」ことを目指したこの文章を書く中で、少しだけ、この怒りから「ときはなち」が出来、本来の自分の有り様に「ひとりだち」する契機をもらった。なるほど、どんな経験でも、考えようによっちゃあ養分になるのですね。でも、早くおうちに帰って、本物の養分(夕食)にありつきたい。バスは2時間弱の遅れが見込まれながら、少しずつ甲府駅を目指している。
]]>「『瀬島さんはこれからどういう仕事をなさるんですか』と河野が聞いた。
『国家のために奉公します』
『国家のためとはどういう意味ですか』
『……』
瀬島は黙ったままだった。」(共同通信社社会部編「沈黙のファイル−『瀬島隆三』とは何だったのか」新潮文庫、p298)
元大本営参謀→シベリア抑留→某大手商社会長→政界の「影のキーマン」、と変遷を遂げた瀬島氏の軌跡を辿りながら、第二次世界大戦の前後で、何が変わり、何が変わらずに残ったか、を浮かび上がらせていくノンフィクションの秀作。先の引用は、元関東軍の一兵卒であり、シベリア抑留中に瀬島氏を見たという河野氏が、戦後大気汚染訴訟の原告団として、臨調委員の瀬島氏に「再会」した折りのやりとり。河野氏の陳情に対して素っ気ない瀬島氏に河野氏が迫ったところの一シーンである。
ここに象徴されるように、瀬島氏には「枠組みのために身を捧ぐ」という「枠組み」があった。この枠組みの名称が、天皇、国家、会社…と変わろうとも、枠組みを固守する、という型は、一貫して変わらなかった。そして、この枠組みを守るための戦略というか身のこなしというのが、抜きんでて良いと評価されたため、第二次大戦→抑留のあとも、再び表舞台に立つ。この視点で見ると、個人や社会というより、ずっと枠組みに囚われていた人間の哀しさ、というものが、読後感におそわれる。彼が日本の第二次世界大戦参戦について、「侵略戦争ではない」と言い切ったのも、自身の枠組みの固執のためには、譲れない一線であった、とすれば納得出来る。そして、この枠組みの固執や堅持、は一軍人に限ったことではなかった。
「日本にとってアメリカは、欲望や憎悪の対象ではあったとしても、分析や観察の対象として戦略的には位置づけられてはいなかった。日本はむしろ、『アメリカ』を欲望し続けながらも、『鬼畜米英』の幻想的な標語によって敵国アメリカの実態を視界の外に追いやり、他者として直視することすら避けて内閉していた。」(吉見俊哉「親米と反米」岩波新書、p57)
文化社会学者の手による明治維新から戦後にかけての、日本社会のアメリカ受容と「政治的無意識」に関する考察は、先の瀬島氏を巡る論考の読後に見ていくと、興味深い。思わず「嫌いは好きのちょっと前」という言葉が浮かんでしまう。反米というのは、親米と対極ではなく、むしろ地続きで繋がっている。この切断されない無意識は、枠組みの固持により、敗戦後に急速な経済復興を遂げた日本社会にとっての、大きな固定資産だった。そして、GHQも、この固定資産を破壊せずに、冷戦時代の到来もあって、うまく活用した。その枠組みの固持の結果として、今の日本の繁栄がある。そう考えていくと、個人瀬島氏の戦争責任云々、だけでなく、彼は実に日本的価値観を体現した人、とも捉えることが出来る。つまり、これを書いている僕自身の中にある無意識をも、両書は浮かび上がらせているかもしれないからだ。
で、もう一冊読んだのは、うって変わって実に秀逸なるエッセイ。ただ、ここにも戦争の陰影が見事に記載されている。
「それにしても、人一倍食いしん坊で、まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだが、さて心に残る“ごはん”をと指を折ってみると、第一に、東京大空襲の翌日の最後の昼餐。第二が、気兼ねしいしいたべた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとおかしくなる。
おいしいなあ、幸せだなあと思って食べたごはんも何回かあったような気がするが、その時には心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあとに残らない。
釣針の『カエリ』のように、美しいだけではなく、甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死にかかわりのあったこのふたつの『ごはん』が、どうしても思い出にひっかかってくるのである。」(向田邦子「父の詫び状」文春文庫、p92)
このエッセイは、もう10年以上前に古本屋で買いながら、全くその後ご縁がなく、本棚に「積ん読」状態のまま、京都→茨木→神戸→甲府、と居住地を変えてきた本だ。何の気なしに一昨日手にとってみて、グッと引き込まれていく。情景がこれ程までに目の前に浮かび上がるエッセイも珍しい。昭和の戦中・戦後の、僕が全く経験していないはずの食卓が、本当に具体的なディディールとして浮かび上がってくる。そんな珠玉のエッセイの中でも、10代に終戦を迎えた著者ゆえに、戦争の経験がそこかしこに出ている。だが、決して告発調でも、厭世的でもない。その時代を生き続けた著者が変わらず持ち続けた庶民としての視点から、食にまつわる記憶が紡がれる。ただ時折、「釣針の『カエリ』のように」、読み手をも引っかけてくるフレーズに、心を捕まれるのである。
同時代的な内容の読書だけでなく、時代も文脈も超えた内容にアクセスすることの大切さ(そして面白さ)をかみしめていていた週末だった。
]]>前日夜、新大阪駅構内で買い求めた551の餃子を肴にビール→白ワイン→グラッパと深酒をしていたので、少し二日酔い気味だが、約束があるので、よろよろ出かける。その約束とは、そう、学生さんにお手伝いを頼んで、半年以上ぶりに、研究室の大掃除をすることになったのだ。
そんなの一人で出来るでしょ、という声に対しては、ただただ、すんません、と答えるしかない。ただ、僕は昔から、部屋の整理が大の苦手。リスか何かのようにモノは溜め込むのだが、そのうち溜め込んだことをすっかり忘れ、溜め込まれたモノは部屋のあちこちに沈殿している。ゆえに、大掃除というと、そういう沈殿していたモノが日の目を見ることになる。「あ、こんな資料があった」「こんなのもとっておいたんだよねぇ」と、作業をやめる「言い訳」が一杯準備されているのだ。そして、色々読み始めたら、手も足も動かず、結局何も片づかないで過ぎてしまう、という悪循環に陥る。ゆえに、「次どうするんですか?」「これは捨てるんですか?」と急かされながら、渋々モードで進めないと、部屋は片づかない。ま、お陰でかなり片づいたのですが。
この前期は、他大学で初めての講義を持ったり、あるいはある研究グループは報告書作成の時期だったり、他の研究会で新たなジャンルに挑戦したり、と様々な事が重なったので、部屋の中も書架も、ぐっちゃぐちゃだった。多少はお勉強した痕跡、というか、戦った日々の残骸が部屋のあちこちにバラバラに散らばっている。まだ採点業務は残っているが、一方で夏休み中にしたい研究を、と考えるにあたっては、まずはこの前期の残骸を処分して、心機一転するしかない。もともとそう考えていた訳ではないが、部屋を片づけているうちに、やはり書架の整理をやるしかない、とわかって、心機一転モードに切り替わっていく。
本棚や書架の整理、というと、大きく分けて二つのやり方があると思う。例えば上野千鶴子氏や、うちの大学のM先生など広範囲をカバーする大蔵書家は、ジャンルも区切らずアルファベット順で整理しないと、収集がつかないそうな。しかし、まだ蔵書数がたいしたことない僕は、分野ごとに固めておいている。両者を比較すると、アルファベット順ならば、その著者の名前を思い出さないと見つけ出すことは出来ないが、ルールは機能的で整然としている。その一方、ジャンル別なら、大体このジャンルの本は、と見当がつきやすい一方、当時のジャンル設定と今の自分の気持ちが別なら、あるいは単に元の場所に戻さなかったら、当該図書は発掘出来ない危険性がある。最近、どうも本を探し当てられないことがある僕も、アルファベット順に対する興味があるが、しかし全ての著者の名前を覚える自信がなくて、分野ごとに固めておく、ということをしている。すると、蔵書数が増えたり、仕事の区切りの際には、本棚を入れ替える必要があるのだ。
で、前期の仕事がとにかくおわり、まずは机に一番近い棚に占めていた、福祉政策やノーマライゼーションに関する文献のグループを元の位置に戻していく。どちらも、講義の為に必要な文献グループだったのだが、特にノーマライゼーションのグループについては、講義を進める中で、学生とのやり取りに対応する為にも、施設福祉の文献も沢山途中で追加していった。ゆえに、講義が終わった後、新しいコーナーを作って、ノーマライゼーションと施設福祉・地域移行といった一区画をつくる。そして、前期の途中で学会発表したテーマについて、この夏もう少し調べて、別の学会発表につなげたい、と思いながら本を並べ直していると、別の区域においておいた数冊が、そのジャンルに関係している、と整理の中で気づいたりする。
つまり、ある区切りの段階で、改めて本の背表紙という現物を眺めながら、新しい文脈・関連づけを作り直す作業をしているのだ。一冊一冊は固有の主張をしていても、その本と本との間の関係性、自分が捉える意味づけを、自分なりに捉え直し、新たに定義づけ直して、書棚に新たに納めることによって、価値づけていく。書棚の整理は、主に動かすのは身体だけれど、やりようによっては頭もフル回転させ、そして次の仕事への原動力になっていく。これは大変だけれど、意義深い。
あと、本棚だけでなく、部屋を整理していると、一区切りがつき、新しい気持ちになれる。その感覚は、だいぶ前に読んだ「ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門」(カレン・キングストン 著、小学館文庫)に触発されているのかも知れない。風水整理術、というと、何だか胡散臭いと思う人もいるかもしれないが、著者の主張はとてもシンプル。ゴミだめのような部屋には悪い運気が流れる、きれいにすると、よい気が流れる、というもの。気の科学的存在の是非はさておき、実際部屋が汚いと、仕事をする気にならない。その本を読んで以来、焦っているとき、落ち着かない時、いらいらする時、やる気が出ない時は、とにかく部屋を片づけてみる。すると、気の流れ、もあるのかもしれないが、単純作業に集中する事によって、雑念のとらわれを追い出すことが出来、結果的に切り替えや場面転換が出来るようになったのだ。我が家ではこの本に感化されて、家人共々、以前よりはモノを捨て、甲府に引っ越してきた時よりは少しは整理がついてきたと思う。
とここまで書いてみて、ハッとこの自宅の仕事部屋を眺めてみると、雑然としていて汚い。せっかく昨日、大学で新たな関連づけを果たし、発掘した本も持ち帰ったのに、これでは仕事にならない。さて、昨日に引き続き、今日は自室の整理から始めますか。
]]>で、二次会の後、美人滋賀コンビの二人と京都まで新快速でご一緒し、久しぶりに実家に帰る。身体は結構疲れているのだが、何だか話したりない。司会でぺらぺらしゃべったが、そういうのじゃない、話、がしたい。そんな時、ひょんな弾みで、最寄りの西大路駅の近所に1人暮らしをしているナカムラ君を思い出す。もしかして、と思って電話をしてみたら、なんとお暇なそうな。ありがたや。早速駅前の本屋に呼び出してしまい、近所の焼鳥屋のカウンターで1時間ほどウダ話におつきあい頂く。同窓会は企画屋モードで、二次会含めて話し込むモードになっていなかったので、ナカムラ君とウダウダ話すうちに、ようやく、しゃべりたいモードが落ちついてくる。夜中なのに急に話につきあってくれて、旧友のナカムラ君は、感謝!多謝!
で、ナカムラ君と待ち合わせの、駅前の本屋で手に取った本は、今日の移動時間の間に、最近のもやもやを整理するための一助となった。
「宗教学は客観性を強調する。そこで言われる客観性とは、対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つことを意味しない。ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくことが、宗教学には求められる。その意味で、宗教学は自分という存在のすべてが試される学問なのである。」(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p265)
オウムバッシングで大学を辞職に追い込まれた宗教学者。そういえば最近著作を割と出しているよなぁ、と思いつつ、今まで読んだことは無かった。そこで文庫だから、と手にとってみたのだが、結構おもしろい。自身の師から何を受け継ぎ、自分自身がどのようなイニシエーション体験をし、それを基にどう宗教学を教え、考えてきたのか、という筆者の遍歴を垣間見ることが出来る。対象領域が違っても、独自の視点で考え続けた先人の学びの軌跡を辿る本からは、後人が学べる部分は少なくない。そして、上記の引用部分は、宗教学を福祉社会学なり社会福祉学なりに入れ替えてみると、まさに自分自身にも当てはまる。
最近とみに思うのだが、山梨に引っ越してから特に、「対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つ」だけではいられなくなってしまった。福祉政策という「対象」に対して、研修やアドバイザー、そして県自立支援協議会の座長など、気がつけば「当事者」性を持つようになってきた。その際、研究者として大切にすべき「客観性」とは何か、がよくわからなくなり、ぼんやり考えていた。そんな折りの、この島田氏の整理は、そうだよね、と膝を打つものであった。
「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくこと」、これは宗教学だけでなく、福祉を扱う学問でも必要だと思う。宗教学とアプローチや方法論は違えど、福祉も価値を扱い、かつ人間の生そのものに肉薄する、という点が宗教学と共通しているからだからだ。
最近、特に行政関係からお声がかかることが少なくない。そして、ご存じのように、世の中には行政にすり寄る、いわゆる「御用学者」なるものがいる。そういえば、件の島田氏もオウム真理教に一定の理解を示した、という意味で、「御用学者」とラベリングされた故に、激しいバッシングに遭う。しかし、この島田氏の本の中で、自身の師である柳川啓一氏の本を引用して次のように書いている。少し長いが、引用してみる。
「柳川先生は聖と俗以外の二分法についても暗号解読を試みていくべきだと主張し、『人びとの日常の世界と質を異にする別の世界を想定する二分法の認識にとらわれている所があれば、たちまちわれわれの視界の中に入る』と述べていた。ここでいう二分法には、左と右、内と外、東と西、生と死、子どもと大人、天と地、上と下などが含まれる。
柳川宗教学の立場からすれば、問題は、われわれの意識がこのような二分法によってとらわれている点にある。たとえば男と女との絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方は、二分法にとらわれたものとして宗教学の研究対象になるというのである。
ゲリラとしての宗教学は、二分法に対するとらわれを指摘することによって、結果的には人びとの意識を解放していくことになる。そこにゲリラのゲリラたるゆえんがあるわけで、宗教学の営みは文化的な“解放闘争”としての意味を持つことになる。一つの学問の枠にとらわれ、その方法を絶対化することはセクト主義として、ゲリラ性の対極にあるものと見なされる。」(同上、p252)
ここからもわかるように、島田氏のスタンスは、「二分法に対するとらわれを指摘すること」であった。ゆえに、オウム真理教=何の弁解余地もない絶対悪、という二分法に対しても、その「とらわれ」を指摘した。しかし、当時の断罪的なマスコミ報道の中で、一面的な断罪に同調しない氏の指摘は、白ではない(=断罪しない)、ゆえに黒(=やつらと一緒)という二分法的ラベリングの中に陥った。このあたりは、この文庫化に際して補論として加えられた「私の『失われた十年』」でも言及されている。ただ、この二分法に関する異議申し立ては、森達也氏の「A―マスコミが報道しなかったオウムの素顔」や村上春樹氏の「約束された場所で」などと通じる部分が大きいと感じた。
そうそう、だいぶ回り道をしたが、引用したのは、「御用学者」について考えたいからだ。確かにどの世界にも「御用学者」がいる。例えば早川和男氏も指摘してやまないが、審議会などでは行政の原案にお墨付きを与えるだけの、文字通りの「御用学者」にふさわしい方もおられるのも、一方で事実だ。他方で、だからといって、行政に関わる=「御用学者」というのも、「絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方」そのもののような気がしていた。批判されるべきは、行政に関わる研究者の「関与の仕方」という内容であり、「関与する」という形式のみを指して、「だから御用学者だ」という整理の仕方は、明らかに二分法的とらわれ、と言わざるを得ない。
「御用学者」になることなく、二分法的とらわれから自由になり、かつ客観的に学としてのスタンスを貫くためにどうすればいいか。それが、「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」なのだと思う。対象世界を無批判に肯定するわけでも、全てを批判するのでもない。文字通り是々非々を貫くために、「ぶつかり合い、火花を散ら」し続けることが「本当に客観的といえる見方を確立していくこと」につながる。ただ、これは確か早川氏が書いていたことだと思うが、審議会など行政という「対象」と関わると、その相手の論理がわかる故に、気がつけば、その相手の論理に取り込まれる可能性は少なくない。つまり、ミイラ取りがミイラになる可能性がゼロではないのだ。だからこそ、対象の内在的論理をきっちり把握・理解した上で、それでも「対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」をし続けることが出来るのか、が問われているのだと思う。
なるほど、最近もやもやしていたことの内実、自分に問われている内容、のようなものが少しずつわかってきた。では、上記のような骨太な「客観性」を持った人間にどう育つことが出来るのか。とんでもない宿題に気づいてしまったあたりで、ワイドビューふじかわ号は甲府盆地に戻ってきた。
]]>昨日は、ご当地の障害福祉に関わる方々の職員研修に関わらせて頂いた。その後、とある若手の自治体職員と話していたら、ぼそっと次のような感想を漏らされた。「目の前の仕事をこなすだけで必死だったけど、福祉の仕事って、理想を持ってやってもいいんですね。」
どれほどの対価よりも、こういう感想ほど、嬉しいものはない。研修って何のためにやるのか、というと、もちろん知識や技術を伝えるのも大切だけれど、一方でその知識や技術を何のために使うのか、という魂の部分、というか、志の部分を伝えることも大切だ、と感じている。青臭いかもしれないけれど、そういう心意気は、ご自身の仕事の方向性に大きく影響している。
福祉の仕事は、特に市町村など最前線で行う業務は、その担当者のやる気や心意気、考え方といった一個人の裁量で、大きく変わる部分がある。これをリプスキーは「ストリートレベルの官僚制」として批判した。確かに、その担当者が「障害者は家族が基本的に支えるものであり、行政サービスはあくまでもどうしてもサポートできない“かわいそうな人”への残余的なものだ」と考えるなら、その人へのサービス支給決定はすごく限定的なものとなる。その一方、「重い障害があっても、この人は地域で自分らしく暮らす権利があるし、それを行政として、限られた財源の中でもどう支えられるかを一緒に考えたい」という気持ちで臨めば、相談支援事業者との連携の中で、何かを産み出すきっかけになるかもしれない。
つまり、行政担当者の裁量は、ポジティブにもネガティブにも働きうるのである。そして、厚労省が「好事例」として全国的に広める事例の中には、こうしたポジティブな裁量を活かした最前線の職員の努力の中から、現場の変革に結びついた場合も少なくない。福祉の世界では90年代以後、「カリスマ職員」という言葉がはやったが、彼ら彼女らの「カリスマ」な理由は、当事者の声にふれあい、自分の枠組みを超え、裁量権をポジティブに発揮して現場を変えてきたことが、滅多にない、カリスマ的な存在であったゆえ、と認識している。
そして、自立支援法の中で、相談支援体制や地域自立支援協議会のような、そういうカリスマ職員が個人的に切り開いてきたネットワークを公的な責任の下で行う「枠組み」が形作られた。だが、私が研修に呼ばれたように、おそらく全国的に、こういう「枠組み」をどう活かしていいのかわからない、という事態は少なくないと思う。これは三重や山梨だけでなく、この前、相談支援従事者初任者研修で訪れた札幌でも痛感したことである。つまり、形作って魂入らず、という事態が、今全国で見られているのだ。
だからこそ、研修の局面で、これまでの障害者福祉の流れを説明した上で、権利擁護やノーマライゼーションをキーワードに、どうして相談支援が大切なのか、を伝える仕事は、重要性を増してくる。その中で、仕事をされる最前線の方々が、自身の仕事にどのような意味や背景があり、どういう方向に向かって、どんな裁量を活かすことが、その地域の障害者福祉を充実するために大切なのか、に自覚的であってほしいからだ。そういう意味では、微力ながらも研修では知識や理念だけでなく、そこに魂を込めようとするし、それが伝わって冒頭のような感想を頂けると、少しはお役に立てた、という実感がわいて、すごく嬉しくなってしまうのだ。
もちろん、だからって図に乗ってはいけないし、乗るつもりもない。こういったことを人前で話せるようになったのは、多くの方々の実践から学ばせて頂いた叡智を、自分なりに受け止め、整理したにすぎない。つまり僕自身が、先人の多くのバトンを引き継ぎ、会場で聞いてくださっている方々に次のバトンを託したにすぎない。そういうバトンリレーの中で、制度だけでなく、魂も引き継がれていくのだ、と感じている。そして、引き渡した僕は、また次のバトンをもらうべく、次の地点に向けて、走りながら考え続けるのだと思う。その中で、時には論文や原稿という形で、時には講演、ある時には授業という形で、後の人にその走りながら考えた事を整理して、伝え、共有していく役割が自分なのかな、とも感じている。そういう意味では、研究者と言うよりは、媒介役としてのメディア的存在であるのかもしれない。
その際に、文字の原義である中間的存在、が「中途半端」にならぬよう、更に勉強せんとまずいなぁ、と思いつつ、これから大阪に向けて旅立つのであった。
]]>Mさんとは、大学時代に深くコミットしたボランティア現場で「同じ釜の飯を食」った年長のお仲間、という間柄。ちょうど干支が一回り前の時代に、ある共通の目標に向かって戦った仲間である。その時の熱狂と騒乱を一緒に体験した仲間として、同じ“戦場”にいたのがわずか10ヶ月間だった、と伺い、改めてビックリしてしまう。なぜなら、僕はそのMさんと、少なくとも2,3年は一緒にいたと思いこんでいたからである。それほど、その時期、その現場を共有した空気は濃密で、自分にとっては忘れがたい経験だった。それは、インド料理屋でビール片手に昔話に花を咲かせるMさんも同じだと思う。
その内容を、12年たった今でも、まだ具体的に書くことにはためらいがある。それほど、自分の中では過去形になっていない、生々しい体験なのだ。だからこそ、客観的に「あの頃は」と振り返ることに躊躇を感じてしまう。
若い頃は、20代までは、10年というとトンでもないロングスパンのように感じた。もちろん、今だってロングスパンである事には原則変わりない。だが、自分の中で蓄積された経験としての10年の中には、すっかりその時の事を跡形もなく忘れてしまったエピソードが大半であるが、上記のように、未だにそれを対象化して客観的記述をすることがためらわれるほど、アクチュアルでリアルな記憶として残っているものもある。もちろん、記憶、というくらいだから、Mさんとしゃべっていても、言われてみて初めて思い出すことも多い。だが、そこで思い出される記憶はまだ鮮やかで、さっと出てくるし、一旦出てきたら、ちょっと前の記憶のように蘇るのだ。
記憶、と言えば、明後日は大阪で大学院時代の同窓会が開かれる。これも記憶の一つ。こちらは、もう対象化して書き出しても良い記憶。どうやら自分の引き出しの中には、寝かせる必要のないゴミのような記憶だけでなく、数ヶ月、数年熟成させると芳醇な味わいを見せる記憶や、あるいは12年如きでは「寝かせる」度合いが少ない、深みが足りない、そんな記憶もあるようだ。
そういえば、村上春樹があるエッセイ(確か「遠い太鼓」だったと思うが…)の中で、滞在記や旅行記など自分の体験を軸とした文章を書く場合、その体験の直後にはメモを取り(場合によってはそれもせず)、体験の後一定の時間、その記憶を寝かせてから書き上げる、と書いていたような気がする。ただ、この村上春樹のエッセイの発言の記憶自体、既に僕自身のフィルターが入った「うろ覚え」なので、正しいという自信はないし、事実の成否はどうでもいい。大切なのは、この村上春樹のエッセイを思い出して書いているように、ある対象を、今の自分のコンテキストに引きつけて書くためには、一定時間を沈殿させることが大切だ、ということである。そうしないと、体験なり経験そのものの力に引っ張られてしまい、それをくぐった自分の核のようなものが消えてしまうからだと、今の自分は考える。
大学院時代のあれこれも、もちろん自分のその後の人生を形成する上で、とても大切な体験であり、一時代の経験である。それは間違いない。だが、今年同窓会をしよう、と実は言い出しっぺが僕自身なのだが、そう言いたくなり、仲間と動き始めたきっかけは、大学院生が終わってはや5年半、という期間の中で、そろそろ昔の仲間ともう一度集いたいよな、という閾値、というか、臨界点に達したからだと思う。そういう体感する閾値感覚は、結構大切だと思う。そして、この閾値は、体験した内容の深さや時間、だけでなく、インパクトの強さや、その後の自分の人生に与えた影響の大きさによって、大きく異なるような気がする。
冒頭のMさんと一時期共有した、大学生時代の思いでは、まさに竜巻の渦に飲み込まれたような日々であり、まだ、言語にして書いてみよう、という閾値に達していない。それほど、ディープに自分の中に根付いている、と、これを書きながら改めて理解した。
断っておくが、別にトラウマ体験とか、そういったネガティブな経験ではない。自分が今、出張で三重に来ることになったのも、就職活動をほとんどせずに大学院に行くことになったのも、その大学院で将来の生活を方向付けることになったのも、そして縁あって山梨の住民になったのも、もとはといえばこの竜巻の渦に巻き込まれた経験が遠因にある。そんな追憶をかみしめながら、駅前のホテルから、伊勢湾の対岸に光るセントレアの夜景をぼんやり眺めていた。
]]>戦後最大の知識人の一人である丸山眞男の膨大なテクストや、それ以上に山ほどある「丸山論」を図として、その背後にある「語ってよさそうな」語られていないこと(地)を探りながら、大学や知識人、ジャーナリズムの果たした歴史的役割やその変遷を捉えた一冊。
以前取り上げた間宮陽介氏による「丸山論」が、正統派、というか、「彼がどのような問題と格闘したかを理解する」ために、「思想家という生身の人間の歴史と社会の歴史とそして思想の歴史という三つの歴史の交わる地点」を丹念に追いかけた力作とするならば、竹内氏の新書は、蓑田胸喜という戦前・戦中に活躍した右翼思想家を丸山理解のための「補助線」として用いることによって、「語ることによって騙」られている、つまりは無意識or意識的に外されている論点を焙り出そうという手法である。テキストを徹底的に読み込むことによって「語り」の背後にある著者の格闘を追体験しようとする間宮「丸山論」と、外側にある「語らないこと」から新たな丸山像を出そうとする竹内「丸山」論。対称的な両者の論だからこそ、図と地をつなぐ事が出来、複眼的に「丸山眞男」を通じての現代史を振り返ることが出来た。甲乙つけがたいほど、両方ともオモシロイ。
ただ、今回の竹内「丸山論」の最大の面白さは、丸山が代表する主流派知識人に対して糾弾姿勢をとった戦前の「蓑田的なるもの」(国家主義)と、戦後の「全共闘世代」(マルクス主義)が、「政治的教養主義としては等価なもの」(p286)と整理してみせた部分や、あるいはその補助線を元に次のようにまとめているポイントなどであろう。
「晩年の丸山の研究は、長い間、生理的嫌悪の対象でしかなかった蓑田・原理日本社的なるものへの正面からの格闘であった」(p272)
「補助線」の活用によって、「(語ってよさそうなことを)語らないことによって語る」部分とは何かを指摘し、丸山の意図をより立体的に焙り出そうとする著者の論点の鮮やかさが際立っている部分のひとつでもある。
僕自身は思想家ではないし、なれる能力もない。だが、一読者として、ジャンルは別だけれど研究の世界の端っこにいる人間として、この竹内氏が焙り出す「方法論」は、多いに学ぶ点がある。冒頭に引用したが、テクストの中から、「語ることによって騙り」、つまり煙に巻かれている部分と、「(語ってよさそうなことを)語らないことによって語る」部分を峻別する視点をこそ、ちゃんと持ちたいよなぁ、と思わせてくれる一冊だった。
]]>例えば、外国人労働者を受け入れる前提として「人手不足の解消」というのが、「事実」として語られる。しかし、そもそも「なぜ」人手不足なのか、については、「労働環境がきびしく」としか書かれていない。では「なぜ」労働環境が厳しいのか、について、言及することなく、社説では次のように書いている。
「まずは働く人がそこでがんばろうと思える職場に変えることだ。特に介護の職場では、重労働のわりに低い賃金が離職の主な原因になっている。そのような労働条件を放置したままで日本で腕を磨こうと海を越えてくる人たちを失望させてしまうのではないか。来日志望者たちは、高い学歴や実務経験があり、将来はリーダーになれるような人たちだ。」
これを読んで、ボンヤリ頭の私でも、「おいおい」と思ってしまった。たった数行のこの文章は、事実の表明ではなく、多くの価値が投影されている。前半の「介護の職場では、重労働のわりに低い賃金が離職の主な原因になっている」という所までは、否定出来ない事実だ。だが、その後、急に外国人労働者が「失望」と書いてある。しかし、ちょっと待って、そもそも、人手不足になっているのは、この「労働条件の放置」にまず「失望」したのは、国内の労働者ではなかったか? その国内労働者が「もう介護分野には戻って来ない」という価値判断をした上で、更に「来日志望者」は「将来はリーダー」になる、つまり「介護分野は外国人労働者が支配的になる」という価値判断をしている。さらっと事実言明のような装いをしながら、大きな分岐点を軽々と超え、価値判断をしている。この価値判断、本当に正しいの?
大阪にいる時にはよくわからなかったが、山梨に来てよくわかったことがある。それは、特に地方出身の若者の多くが、自分が生まれ育った地方で暮らしたい、と願っている、ということである。親の面倒を見たい、住み慣れた地域がいい、東京は怖い…いろんな理由があるが、ともあれ、生まれ育った地域で住みたいという人は少なくない。だが、大都会以外では、安定した収入を確保出来る労働が少ない。だからこそ、私の所属校のように、公務員試験に受かる学生が多い、という大学には、全国各地の「地方」とよばれるエリアから、多くの志願者がやってくる。ゼミ生に聞いても、「実家の近所で安定収入があるって、やっぱ公務員くらいしかないっすから」という答えが返ってくる。そして、生まれ育った地域での「安定収入」、という幻想が、少なくとも3年前くらいまで、介護の分野でも続いていたのではないか?
介護は、全国あまねく全ての地域で必要とされる。しかも、地方に行けば行くほど、そのニーズは一般的にいって強い。地元経済が弱い(少ない)地域であっても、確実に要介護者はいる。だから、介護や福祉の分野なら、食いっぱぐれはないだろうし、地元でずっと暮らせるのではないか? 90年代の福祉学部のバブル的増加や、社会福祉士・介護福祉士など空前の国家資格取得ブームの背景に、こういう「地方のニーズ」が少なからずあったと思う。しかし実態は…ご案内の通り、政府の社会保障費の伸び率の抑制等により、介護報酬を減らし、看護の世界でも人手不足が激しい。「重労働のわりに低い賃金」という現実が構成されている。福祉学部の定員割れも、ここ一二年ひどいらしい。だが、ここで朝日の社説では外されているが、この現実を変えたら、私はまず日本人の労働者が戻ってくる可能性があるのではないか、と思っている。
勘違いして頂きたくないのは、私のこの整理は、外国人労働者の排除を意図しているのではない。そうではなくて、まずは国内労働者の、特に「地方で働きたい」というニーズに応えていない中で、付け焼き刃的に「安かろう」の発想で外国人労働者をこの分野に導入することは、結局のところ、当の外国人労働者だけでなく、日本人の潜在的労働者の排除にも繋がるのではないか、という点である。
昨年の2年生ゼミでは、介護労働者の労働実態に関して県内での調査を行った。その中でわかったことは、介護の仕事にやりがいを感じる人は全体の53%に達する一方で、賃金に不満のある人は46%という結果だった。この結果は県の社会福祉協議会の季刊紙に掲載して頂いたが、結構反響が大きく、報告書が欲しい、と、いう問い合わせもいくつかった。(その掲載紙「やまなしの福祉」2008年5月号はネットでみれます)
介護保険スタート以後、介護労働に関わり始めた労働者の少なからぬ数が、仕事そのものにはやりがいを感じている。だが、その一方で、低賃金という待遇上の問題から、離職を含めた検討をしている、というのだ。つまり、人手不足はその労働自体の魅力のなさ、ではなさそうだ、というのが、山梨で調査したゼミ生達の調査から明らかになっただけでなく、実はこないだ発表された全国調査も同様の結果だった。介護労働安定センターの調査によると、平成19年度での介護労働者の「現在の仕事の満足度」としては「仕事の内容・やりがい」が55.0%である一方、「働条件・仕事の負担についての悩み、不安、不満等」について、「仕事のわりに賃金が低い」が49.4%を占めた、という。(平成19年度介護労働実態調査結果)
ただ、もちろん、仕事は金だけではない、というのも確かだ。どんな仕事であれ、対価だけがインセンティブになっているわけではない。やりがい、働きがい、そこでの人間関係や充実感によって、仕事を継続するか、辞めるかが変わってくる。とはいえ、そもそも対価が低いとわかっていて、やりがいがあるから頑張りなさい、というのは、とみたさんも言うようにガソリンをくべずに「死ぬ気で頑張れ」と言っているのに等しい。ガソリンを入れずに、あるいはガソリンの量を極端に減らして、精神論だけで頑張りなさい、無理なら、外国人で穴埋め、という発想(=この記事が前提としている暗黙の価値観)は、60年前以上に日本が突き進んだ道と全く変わっていない。その悲劇を何度繰り返せば済むのだろう…。
事実の背後にある価値観を前景化させるために、「なぜ」としつこく問い続けること。このごく当たり前のことが、今更ながら、すごく大切だよなぁ、とこの記事を読みながらため息をついていた。
]]>夏のお昼、と言えば素麺に限るのだが、でもそれも冷やっこい。付け合わせに何か腸を温かくするものを食べないと、と思って冷蔵庫を覗いてみたら、つるむらさき君がいる。そう言えば、台湾やバンコクで菜っ葉の炒め物なんて食べたよなぁ、と思いながら探索すると、山梨産の美味しいニンニクや干しエビを発見。オリーブ油でとんがらしとニンニクを炒めた後に、つるむらさき君とインゲン豆君も放り込んで、白ワインで少し蒸す。仕上げに干しエビを放り込んだが、後で考えたら最初に入れた方がよかったかも。まあ、何はともあれ、ピリリと辛みの効いた炒め物が、素麺をゆでている間に出来上がる。当然、うまい。腸が温かくなる食べ物だ。
で、一杯汗をかいた後、水浴びをして、そろそろ採点を…と思いながら、同僚の先生にお借りした「トゥーランドット」をDVDで流してみる。そういえば件のY先生は「イッヒッヒ、夏休みの仕事の邪魔を…」などと仰っておられ、何のことかよくわかっていなかったのだが、DVDが流れ始めるとよくわかった。確かに、ひとたび見始めたら、面白くて、仕事を忘れて見入っていたのだ。
このDVDをつけるまで、オペラなんぞ高尚なもので自分にはさっぱりご縁のないもの、と思い込んでいたが、さにあらず。中国北京を舞台にしたこのドラマ、途中で「ピン・ポン・パン」なんて3役が出てきたり、喜劇的側面も充分に取り入れた、西欧人からすると「異国情緒たっぷり」なストーリー。20世紀初頭の、まだテレビも衛星放送もなかった時代に、劇場にいながら異世界を垣間見るための仕掛けとお芝居、それらをまとめていく音楽的熱狂、という構成は、高尚でも何でもなく、ほんとにオモシロイ。講談師が「それからそれから…」なんてストーリーテリングする代わりに、なぜだかみんなが歌いながら話をつないでいく冒険活劇、そんな風にストンと落ちたあたりから、テレビに釘付けだった。久しぶりに二時間、テレビにかぶりつく。後二本も、こりゃ楽しみだ!
てなことを書くと、たまにこのブログを覗かれる友人の“チエちゃん”ならきっと、また師匠かぶれして、と揶揄するかもしれない。そう、私の師匠は、ジャーナリストよりイタリア料理のシェフかオペラ歌手の方に真剣になりたかった、という多趣味な方。私が料理に興味を持ったのも、クラシックの面白さに気づいたのも、多分に師匠を間近で見ていたからだ。そんな「まねし」を揶揄されるのもなぁ、と思っていたら、思わぬ援軍の文章に出会う。
「物書きは恋の達人だ。他の作家にすぐ恋してしまう。実はそれが書くことを学ぶ方法なのだ。物書きはある作家を気に入ると、その人の振る舞い方やものの見方が理解出来るようになるまで、全作品を何度も繰り返し読む。恋人になるとはそういうことだ。自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく。人の作品を愛する能力とは、そんな可能性を自分の中に目覚めさせることなのだ。それはあなた自身を大きく広げることはあっても、物真似屋にすることはけっしてない。人の作品の中で自然だと感じられるものは、やがてあなたの一部になり、書く時にその動作のいくつかが使えるようになる。」(ナタリー・ゴールドバーグ『魂の文章術』春秋社、p117)
僕は、師匠の「内弟子」のように、弟子入りをした。間近で弟子としていさせて頂いたのは、5年近くになるだろうか。師匠の近くで、その師匠の「振る舞い方やものの見方が理解出来るようにな」りたい、と切実に願った。自分「自身を大きく広げ」たいのだが、どうしていいのかわからなかった20代の僕にとって、師匠は憧れの存在だった。そんなに簡単に近づけない、遠い目標だった。だからこそ、まずは「振る舞い方」や口調を真似することから始めた。いや、意識して真似た、というより、その方の「振る舞い方」から、料理や音楽など、自分が経験したことのない世界の豊かさを気づかせて頂いた、というのが正しいのかもしれない。そうすると、師匠から勉強だけでない、人生の多くのことを学ばせて頂いてきたし、今も学ばせて頂いている途中である。
この、師を真似て学ぶ、という姿勢は、実は大学院時代が初めてではない。昔から、憧れを持つ対象に対しては、その対象と一体化することによって、何かを学び取ろう、というクセが気づいたら自分にはあった。中学時代に通った塾の塾長、予備校時代からお世話になった英語の先生、そして師匠、とその時代に憧れを持つ人は変わるが、その師匠を真似ることから学ぼうとする、その型は一貫していたと思う。だから、大学時代、昔通った塾で講師をしていた時には「塾長そっくり」と言われ、予備校で教えていた時には、「予備校の先生そっくり」、大学院では「師匠そっくり」と言われた。別に多重人格になったのではなく、自ずとその所作が頭の中に入っていたのだろう。師の「振る舞い方」から入ることによって、いつしかその方の「ものの見方」(の一部)を獲得出来るようになりたい、そんな欲求からスタートしたのだと思う。だから、型から入る武道や歌舞伎など、やってはいないけれど、何となく共感を覚えたりもする。
そして、今、書き手の端くれになり始めたが、折に触れ師匠の「全作品を何度も繰り返し読む」。代表作など、何度読み返したかわからないが、発見がある。ワンフレーズをふと読んでも、そういう切り口なんだ、と学び直せる。「自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく」ことで、自身の狭い世界観を乗り越えるチャンスを頂けるのだ。そういう経験を10代から20代にかけて、何人かの師の下で学ばせて頂いたこと、これほど文字通り「有り難い」経験だ。
その経験を糧として、「物真似屋」ではなく、何か書き始めてみたい。ナタリーさんの本を読んでいると、そんな内奥の「魂」の部分が揺さぶられるような気がする。
]]>ブログに関して、僕はあまり多くのブログをチェックする、という趣味はないのだが、いくつか見ているだけでも、色々なタイプがあるようだ。思いつく類型化としては、@身辺雑事系、A普段言えない思いの暴露系、B読書メモ系、C普段の自分とは違うキャラ展開系、D記憶メモ系、E思考の補助具系…。ま、類型化したらこの100倍以上の類型があるのだろうが、あまり読んでいないので、後の類型化は皆さんにお任せ、である。
僕はどの類型か、というと、多分B=E>@くらいの割合かな。少なくとも絶対にしないのがAの類型だ。そりゃ当たり前で、自分の名前を公表してブログを書いているのだが、そんな公開の場での「オフレコ」というのは変な話。それだけでなく、僕は基本的にメールやブログを書く際も、「基本的に転送されても大丈夫なように」とかなり気を遣う。普段のタケバタからは想像出来ないかも知れませんが、これでも「石橋を叩いて渡る」タイプの時もあるのですよ。だから時として、メール一本書くのに数時間、いや思案の時間も含めると数日程度かかる時もある。気持ちが乗らないと、返信しない。酔っぱらっている時は、絶対メールを書かない。そうすると、ついつい返信が溜まる。純粋にビジネスのメールなら、たったと返信するが、少なくとも私信に関しては、結構時間がかかってしまう。
このブログも、それと同じスタンス。どなたが読んでいるかわからない(というより、誰も読んでいないのかも知れないけれど)公共の空間に言葉を投げかける時、私信を出すのと同じように、むやみやたらと自分の心情だけを綴るのは憚られてしまう。仮想の「あなた」という相手との対話を考えると、その対話する他者が見えない独り言は、非常にアブナイと感じるのだ。だから、そういう他者が想起出来ない時には、ブログは一切書かない。そうすると、気がつけば2週間近くも放ったらかしになってしまう。すいません。
最近の犯罪事情を垣間見ると、どうもこの仮想空間での「仮想的対話」という心構えがない人が多いようだ。秋葉原の無差別殺人事件の犯人は、ネットで実際のコメント・書き込み等を求め、そこで「相手にしてくれない」という思いを募らせた、という。なんだろう、そういう直接の返信、はなくとも、仮想的に「あなた」を想起し、その「あなた」と対話する形で物事を考えていけば、決して無視されたという悪循環的思考にはたどり着かないような気もするのだが…。
これは某事件に限ったことではない。どうも、ブログという性質はそういうものなのかもしれないが、対話のないモノローグ的垂れ流しブログ、が目につく。別にこのサイトはそれらと比べて高尚・高邁だといっているのではない。そうではなくて、モノローグかダイアローグか、でローグ、すなわち論理の運びようが違ってくるような気がするのだ。他者に開かれた論理と、自己にしか開かれない論理。この二つの論理の違いが、大きな差となって、読み手の読者に、そして公共空間へと跳ね返ってくるような気がしているのである。
僕の好きな言葉は、大阪のお母様、と敬愛するある方がよく口にする「お顔の見える関係作り」というフレーズ。蜘蛛の糸を通じて見ず知らずの方に届く媒体であっても、それを通じて読んで下さる「あなた」とは、仮想的にでも「対話者」として、「お顔の見える関係」を築きたい。そういうスタンスで、文章を書いている。メールでもしかり。だからこそ、メールやブログ的な表現がもどかしく、つい電話をかけたり、あるいは会いに出かけたりする。思うことは直接相手に伝える。そういうスタンスこそ、対話的スタンスのような気がしている。
だからこそ、このブログの更新が出来ていないと、実際に思い浮かぶお顔の方々にたいして、「すいません」となるのだ。今日明日で試験監督も終わるので、ぼちぼち更新頻度も上がる、予定です。また、皆さん、このブログをごひいきに。
]]>「行政や政治が悪いと責めるだけで、社会はよくなるであろうか。市民の1人1人がこの社会を作っているのだ。暮らしやすい社会作りのために自分たちに何が出来るか、を考える時期でもあると思う。私たちは、消費者として金を払ってサービスを買うだけ、そして不十分なサービスに対してクレームをつけるだけ、自分は一方的な被害者で何の責任もない、という関係に慣れきっていないだろうか。たしかに、私たちは消費者でもあるが、社会の当事者でもある。人と人のつながりや安全な地域社会はお金で買えない。ガードマンを雇うだけで、地域の安全の問題が解決するわけではない。」(前田正子『福祉がいまできること』岩波書店、p207)
著者はもともと子育て政策についても著書があり、民間のシンクタンクなどで働いてきた専門家。自身も子育て中の母親として、中田市長就任時の4年間、副市長を勤めた。その中で、子育てだけでなく、福祉行政全般にわたって、副市長のポジションから政策的課題を解決すべく模索してきた専門家。そこで触れられる子育て支援や児童虐待、生活保護やワーキングプア、日雇い労働者の高齢化問題など、どれも待ったなしの問題であり、かつ告発調ではなく、何とかその現状を変えようと現場で奮闘する人々の声を丹念に拾っている。しかも、文章が読みやすく、説得力のある筆力。
山手線車内で読み始めたのだが、千歳空港到着時には一気に読了した。多様化・複雑化する社会問題と、それに比べて伸び悩む予算、行政に対するバッシングなどを整理していった後の、上記の一言は、大変に重く、説得力がある。そして、この文章に辿り着いて、その前の甲府から新宿に向かう「かいじ号」の中で読了した、別の本を思い出していた。
「高福祉・高負担の国は、みんなが高い負担を引き受け、みんなが高福祉の受益者となる仕組を原則としているのであって、一部の弱者を救済する手段として福祉を位置づけているわけではない。この場合、福祉とは社会全体の連帯を意味し、高額納税者であれ誰であれ、全員が何らかの形で福祉国家に暮らす恩恵を受けるようになっているのである。この論理が受け入れられるためには、国民の間に社会的連帯意識が成立していなければならない。そうでなければ、納税者たる自分に対するサービスが悪いという理由だけで、『官』という存在が非難されることになってしまう。(略)自分のカネが自由に使えず、税金や社会保険負担に多くを取られるような社会、それは、ある意味で不自由な社会だ。だが、その不自由さを悪だと決めつけることは、やや早計であろう。」(薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』光文社新書、p119)
フランス在住経験のある社会学者の目には、アメリカや日本のように自由を崇高で最大限に尊重する民主主義、以外の選択肢がフランスにはあると見えてきた。それは、不平等な状態におかれた対象となる他者を支援するためには、時としては自分自身の自由を制限する(税金を多く納める、ストに不満を言わず支援する、自分の主観・価値観・利己主義的信条を押しつけない…)こともいとわない、という平等重視の「社会全体の連帯」の民主主義、である。この社会学者の視点を、行政の最前線にいた前田氏の議論に絡めると、事態が立体的に見えてくる。
消費者への顧客満足度重視が至上主義となる自由主義的民主主義は、時として「不十分なサービスに対してクレームをつけるだけ」となりがちだ。だが、特に行政が関わる社会サービスの分野にあっては、「暮らしやすい社会作りのために自分たちに何が出来るか」を考え、暮らしにくい状態にある人のことも自分事として考える「当事者」意識、つまりは「社会全体の連帯」を基盤としたものの見方や関わり方も大切なのではないか。このお二人の主張は、山梨の現場のお手伝いに関わらせて頂いている僕自身にも、本当にその通り、と赤ペンで線を引きまくるように、納得していた。
だからこそ、これを整理していて浮かんだ問いは、小さくない。
「では、みんなが当事者意識を持ち、社会的に連帯していくためには、どうしたらいいのだろう?」
これは、大学で講義をしていても、明日のように講演に呼ばれて話す際も、いつも気にかける点である。日本人が当たり前に持つ、自由主義的資本主義を所与の現実としている限り、上記の整理は実に偏った極論に思える。だが、日本でもアメリカでもない国のリアリティに触れたとき、また、日本の国内であっても市場原理主義的ソリューションで解決できない福祉現場に直面したとき、私たちが当たり前にしているこの常識そのものへの違和感が生じてくる。そして、その中から見えてくるのは、行政を悪と単純に見なし、公務員削減と効率的小さな政府を是とするワンフレーズポリティックスに関する違和感である。これは、僕も福祉現場に関わらせて頂き、またスウェーデンに半年ばかし住んでみて、すごく感じた。そして、今、山梨の現場で行政や地域の皆さんと関わっていて、切実な問いとして、目の前に差し出されている部分でもある。
だからこそ、自身に問われるのだ。では、どうしたらその「違う現実」を伝えられるのだろうか、と。
そんなことを考えているうちに、エアポートライナーは8年ぶりくらいの札幌駅に、僕を運んでくれていた。
]]>「ある事柄の『意味』は、常に、より包括的なコンテクスト、外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、『情報』は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要性を説明することができないのである。」(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、p87-88)
「より包括的なコンテクスト」への「参照を前提」にしているのが、確かに研究の大前提である。だが、研究者がタコツボ化(=オタク化)されて久しい。自分がおもろい、と思っていること、問題や、と怒っていること、そういった感情的な「情報」を「意味」のあるまとまりに束ねて、「より包括的なコンテクスト」への「参照」の中で論じる。これが、研究の醍醐味のはずだ。だが、「意味」のあるまとまりに束ね損ねていたり、あるいは、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なき、内輪の議論に終始している場合も少なくない。自家中毒的な症状を示している文章が、あふれている。そして、自分もそういう部類に入っているとしたら、福祉オタク、なのか…。
「真実は細部に宿る」という箴言を、一方では信じている。しかし、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なく、細部に「のみ」拘泥することは、結局足下すくわれる、というか、本質を捉えきれず、事態を矮小化したり、あるいは構造的問題を隠蔽するのに荷担することにも繋がりうるかもしれない。「外側のコンテクスト」で何が言われているのか、それと「参照」する(=結びつける)なかで、この目の前で生起している時代をどのように位置づけることができるか。こういう視点を持たない限り、日々の生々流転する現象に必死に対応し続けた(=その細部には最大限のパフォーマンスで参画した)結果として、気がつけば、大きな失敗に至る可能性もある。大局観、という言葉が、頭の中に点滅している。
福祉という現場は、一方で目の前にいる人の生活そのものと直結しているリアリティを持つ。「この方の安心・安全がどう護れるのか」という抜き差しならぬ問いの前に常に置かれている。その一方で、その首尾範囲や条件設定などは、常に政治的・財政的パワーポリティクスの中で揺れ動くものである。今日の常識的議論の前提は、その常識を支える主義・人間観などに色濃く反映されているが、それは所与の現実だけでなく、揺れ動くものである。介護保険制定時に、あれほど「権利としての福祉の確立」が叫ばれたのに、その数年後に「財政破綻」の基に介護給付や労働者賃金の圧縮化に向かったのも、揺れ動く現実の反映の表れである。揺れ動く現実の表層的な情報に一喜一憂することなく、でもその核心をたぐりながら、抜き差しならぬ問いにどうこの現場で取り組めるか、とりあえずの解を出せるか、が問われている。
そして、それを研究者として外部から批判するのか、また、実践者として内部にコミットするのか、もまた問われるところだ。御用学者に陥るリスクは、常にある。だが、現実を見据えない理想論を言っていても、何も変わらない。抜き差しならぬ問いを前にして、変えるべきではない目的と、柔軟になるべき方法論の混同・誤解の危険性は常につきまとう。それとどう対峙しながら、歩みを進めるか。そのためにこそ、「より包括的なコンテクスト」への「参照」が絶対不可欠なのだ。
]]>最近にない、エアポケットのような「あまりもの」の時間と空間の余裕。なんのことはない、今朝の大雨で、乗るはずだった身延線の特急電車が運休になったのだ。塩尻経由の切符を買い換えても、30分近い待ち時間。まあ、今日は夕方までに大阪の調査現場にたどり着けばいいので、気がせくことなく、のんびりしている。
だが、駅のみどりの窓口では、大声で文句を言うオジサンも。JR職員がルールに基づいてこうなっている、という説明をするのだが、「責任者だせ」と声を張り上げる。こういう展開は、横で見ていても、何だかげんなりする。そういう光景を見ていて思い出したのが、次の内田先生の言葉だ。
『気づかぬうちに私たちの社会には「他人の苦しみをおのれの喜びとする」タイプのマインドが瀰漫しつつある。自分には何の直接的利益もない(どころか、しばしば不利益をもたらす)にもかかわらず、それによって自分以上に苦しむ人がいるなら、その苦しみを自分の「得点」にカウントする風儀がいつのまにか私たちの時代の「ふつう」になってしまった。』(アナザー忙しい週末)
まあ、このオジサンの場合、払い戻しのお金を受け取れば直接的利益になるので別だが、おたがいさん、の事態に対して、「自分以上に苦しむ人」を作り出す風潮があるような気がする。「恨み・呪い」が原動力となる行為は、やはり真っ当ではない。そんな真っ当さ、が社会的に薄くなりかけている。こう書くと月並みだが、内田先生は、こんな風にも書いている。
『それは「呪うものは呪われよ」ではない(それでは呪いは増殖するばかりである)。「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。』(同上)
そう、恨みモードではなく、祝福モードにどれほど持って行けるか、が鍵なのだ。でも、意図せざる事態で恨みたくなる時に「呪詛を祝福」に変えるためには、時間的余裕と器の余裕の両方が必要になる。ここしばらく、時間的余裕がなかったばっかりに、心の器は酷くやさぐれかけていた。やはり、カプチーノなんぞ飲みながら、ゆるゆるする時間を作っておかないと、「呪詛には祝福」とはいかない。精進がたりんなぁ、と思いながら、喫茶店のソファーに深く座り込む朝であった。さて、そろそろあずさに乗るとするか。
]]>この前期だけ、お世話になっている先生がサバティカルでおられないので、その代講として、某大学で学部と大学院の講義を受け持たせて頂いている。2コマの純増というのが、どれほど大変なのか、という想像力を全く持たずに引き受けてしまったのだが、やってみると、めちゃくちゃ大変。大学院は3,4名という超少人数のゼミで、学部は200人。どちらも、もちろん手が抜けない。かといって、本務校がおろそかになっては本末転倒。それに加えてあれやこれやと仕事も降りかかり、結構めろめろな日々である。ま、そういう中でも、多少は記憶に残しておかなければ、と次のようなエッセーを書いてみた。
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ノーマライゼーションを「伝える」、ということ
「なんだか生理的に受け付けない!」
ある大学院生が、そう漏らした。そのつぶやきを聞いて、以前の自分を思い出していた。
私は以前、当誌103号で「ノーマライゼーションの具現化としての施設解体−スウェーデン知的障害者福祉改革のプロセスと施設解体後の現状」と題して、2003年冬から2004年春にかけて行った現地調査の概略を発表させて頂いた。この調査では、2006年に亡くなられた「ノーマライゼーションの育ての父」、ベンクト・ニイリエ氏に直接お話しを伺うチャンスもあり、その時の薫陶を短い原稿の中に入れようと、試行錯誤した思い出がある。
あれから5年後の今年、海外に研究調査にいかれた先生の代役として「ノーマライゼーション」に関する講義と演習を、学部と大学院でそれぞれ1コマずつ引き受けた。5年前はスウェーデンのノーマライゼーション具現化のプロセスや実践への反映を調べ、受容するだけで必死だった私が、今度はご縁あってノーマライゼーションを学生に伝える、という機会に恵まれたのだ。そこで、大学院の演習では、以前からやってみたかった(けど一人では果たすエネルギーが沸かなかった)北欧・北米・日本でのノーマライゼーションに関する文献をかき集め、時系列的に読み進めてみることにした。
実はこれには伏線がある。以前とある教科書に「ノーマライゼーション」の項目を書かせて頂いた。その執筆過程で、ある程度ノーマライゼーションの言説を集め、読み進めていたのだが、その中で、この概念ほど論者や時代によって色んな意味合いが込められているものはない、と感じ始めていた。「脱施設」推進の文脈でも、入所施設の機能充実の文脈でも、同じようにこの言葉が使われている。「この“同床異夢”状態がどうして起こっているのだろう?」 このときに感じた疑問を解決したくて、ある種の「謎解き」をし始めたのが、先述の大学院の演習である。そして、冒頭のつぶやきは、北欧のノーマライゼーション概念はもともと施設福祉中心的なものであった、と批判していたある論文を読んでのディスカッションの際に出てきた一言である。
実はこのつぶやき、私自身も当該論文を初めて読んだ際に、同じ事を感じていた。大学院生の頃、「ノーマライゼーション=善」という単純な理解をしていた私自身にとって、その論理の運び方に陥穽を見いだせなかったものの、どことなく「なんか違うんじゃないかなぁ」と感じていた。だが、何がどう「違う」のか、はっきりわからなかった。だから、この学生同様、「生理的」レベルの嫌悪感で留まっていた。
だが、今年のゼミで、ある「補助線」を引きながら考えることで、この「生理的」レベルでの処理ではない、新たな視点が見えてきた。その「補助線」こそ、社会学の古典的名著でもあるE・ゴッフマンの「アサイラム」である。
(以下は『季刊 福祉労働119号』現代書館、をご参照くださいませ)
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あと2回となったが、ノーマライゼーションについて学部・大学院の講義で集中的に読み進めていったことは、自分にとって新たな視点の深まりが始まっている。大学1年生の新鮮な目で洗い直してみたときに、ノーマライゼーションがどう伝わっているのか、どう伝えた方がいいのか、ということを再発見する。また、大学院生との議論の中で、自分が誤解していた部分、深く読めなかった部分、こういう視点もあるのではないか、という発見などを頂ける。毎週月曜の1・2限なので、5時52分甲府発の普通電車に乗っていく生活は相当きついのだが、こういう発見やら学びがあるのなら、何とか耐えられる、という気もする。ま、今回限りの、ということもある(有限という)気安さもあるのだが。
とはいえ、月曜日に東京方面(といっても埼玉なんですけど)に来ていることが某方面にバレてしまい、その後夕方からの研究会になる日々が多い。今日もその日程になっている。すると、だいたい18時から議論が始まるので、終わるのが早くて21時、遅くて22時。で、新宿23時の「かいじ」に乗って、甲府に着くのは24時42分。明日の朝は本務校で1限なので・・・。というグロッキーな生活なのです。しかも、昨日から明日まで、3連続で東京の仕事もある。行ったり来たり、は身体に応えるのだが・・・そんな愚痴を書く前に、明日の研究会の課題読書はまだ4分の1しか読めていない。ここに来て、ようやく真面目に勉強している遅咲き男であった。
]]>で、今日は少しゆっくり出来たが、先週も神経がびりびりするほど、忙しい日々だった。というのも、とある会合で虐待防止法に関するプレゼンを急に頼まれたからだ。権利擁護と虐待防止というのは、共通している要素がある。どちらも、起こってしまった権利侵害や虐待に対してどう対応するか、という事後救済側面が強いのであるが、本当にそれらの事案に向き合うのであれば、事後救済だけではなダメで、いかに事前予防をするか、が鍵である、という点だ。虐待や権利侵害の芽をどう摘むのか、社会がどうそれに関われるのか、がポイントとなってくる。
そう考えた時、我が日本社会は最近どうだろう? 事前予防型社会といえるだろうか? 起こってしまったことに対応し、それを個人の問題と極小化して、その事後対応に終始している、とは言えないだろうか。そして、そういう個人モデルの事後救済型に終始した社会においては、次のような発言が論理的帰結として導き出されがちだ。
「『個人責任の時代』の到来です。これから十年以内に、これまでの政府・社会・会社の保護が薄れる代わりに、個人一人ひとりの責任が重要となる時代が来るということです。もちろん、そうだからこそ、今、ビジネス書がこれまでになく、よく売れているのでしょう。個人一人ひとりがサバイバルをかけているわけです。」(勝間和代『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』ディスカヴァー・トウェンティーワン、p50)
本の売り上げの一部を途上国の自立支援プログラムに使おう、という志ある著者でも、日本社会の分析に関しては、「個人責任の時代」と言い切る。この部分に、単純に「そうなんかなぁ」という違和感を感じるのだ。政府や社会の保護が薄れそうだからこそ、どうしたらそういうセーフティネットを張り替えたり、現代版の強化をすることが可能か、を考えるのも、事前予防として大事なのではないか。それを「個人一人ひとりの責任」に矮小化することは、まさに事後救済的発想ではないか。で、個人がリスクヘッジするために、他から「一抜けた」するために、こういうビジネス書が出ているとしたら、何というか、浅ましいような気もする。
読み手に誤解を招かないように言うと、儲けることが悪い、と言っているのではない。ただ、儲け「のみ」に専心して「個人責任」を強調することは、たまたまその闘いで不運にも「負け組」になった人にとっては、取り返しのつかない事態になる可能性がある、ということだ。「政府・社会・会社の保護が薄れる」とういことは、その中で一部の強者は勝てるかもしれないが、脱落していく可能性がある弱者もまた、生まれる、ということだ。それが自由主義社会だから「しかたない」のか。あるいは、そういう社会での落ちこぼれもサポート出来るような「政府・社会・会社の保護」もある程度必要と考えるか。
自分だけが一攫千金出来る(=ということは他の人の不幸を甘い蜜にする)という社会に対しては、やはり「そうなんかなぁ」という違和感を感じてしまう。東京のような都会では無理かも知れないが、山梨ではとうもろこしをもらったり、お返ししたり、というお顔の見える関係がまだ残っている。そういうお顔の見える関係、の延長線上にある、「助け合い」とか「連帯」とかが、都市部であっても大切ではないか、と未だに古くさいことを考えている週末であった。
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