« 「生きざま」を支えるとは? | メイン | 精神医療の「機能的合理化」 »
2006年06月12日
内側からの視点
「発達の大原則によれば、『力を身につける』ということは、『その力を使って生きる』ということと表裏一体の関係にあるはずです。ところがその間に、おとなの視点の張りついた『将来』ということばが入り込むとき、力を身につけ伸ばすことが、生きることから離れて自己目的と化します。発達することが目的になり、あるいは課題になり、それを達成するために親や教師が邁進し、やがて子どもたちも、この外側からの視点に身を添わせることを覚えていきます。」(浜田寿美男「『私』をめぐる冒険」洋泉社新書、p60)
「その力を使って生きる」という、発達する側の視点に立って必要なものと、「将来」という、発達を見守る側(保護者、専門家・・・)の論理の相違。この、普段ならなかなか見えにくい「裂け目」を浜田氏はわかりやすく表してくれている。そう、「将来」という、子ども自身ではなく、大人の側の要請やら、自己都合やら、自己目的によって、子どもの「今」のアクチュアルな知識や想いや発想を拘束してしまうこと、この中から、子ども自身の中での喜びやら面白さ、知を愛するエロス、といった「内側からの視点」が剥ぎ取られ、外側からの、つまり「大人が良いと判断するであろう視点」に「同化」する(=身を添わせる)ことになってしまうのだ。そして、同化しきると、晴れて「つまらない大人もどきの子ども」の一丁上がり、となる。
こういう大人になりたい、と子どもが自ら願う場合、それは子どもがあるロールモデルに憧れ、自分でそこに近づこう、という軌跡であり、それについて特に否定するつもりはない。ただ問題は、「子どもはこうすべきである」と、当の子どもではない、大人が価値判断する時の事である。子ども自身が、その価値判断を出来ぬ場合、大人は適切にアドバイスやサジェッションをすべきであろう。しかし、それはあくまで子どもが、自分自身の『力を使って生きる』ことをしやすくするための、補助線的な支援にすぎない。あくまで、「力を身につける」のは、大人ではなくて、子ども自身だ。その時に、本来ならその子どもの心の動きにこそ、大人の側が「同化」すべきなのに、大人が子どもより一歩前に出ている、と勘違いして、子どもに教化育成指導する。この図式そのものが、間違っていた場合、どうするのだろうか?
世間的な「将来」やら「成功」に拘泥することなく、自身が本音と建て前で引き裂かれることなく、その人が「その力を使って生きる」ことが出来るような支援とは何か。浜田氏の文章を読みながら、考えはあちこちに巡っていく。
投稿者 bata : 2006年06月12日 22:49