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2005年05月05日

脱線事故雑感

JRの脱線事故に関連するニュースに接して、どうも腑に落ちない。

確かにご家族の怒りや悲痛は痛いほど伝わってくる。JRの安全軽視と
ダイヤへの固執への問題点もよくわかる。でも、もっと深く考えないと、
問題の本質は捉えられないような気がしてならない。

まだ、きちんと考え切れていないので、今は考えるべき材料だけを
列記しておこうと思う。

・「時間感覚」について
→僕自身が大阪にいた頃、京阪神をそれこそ「分刻み」で移動するような
日々に慣れていた。それが当たり前だ、と思っていた。素早さ、が美徳だ
とすら感じていた。その感覚で山梨に来て、ゆったりした速度感に最初、
いらいらさせられた。だが、事故後の報道を見ていて、普段のダイヤの誤差
が1分以内、というのを知るにつけ、それ以上「遅れてはならない」「素早く
しなければ」という、ある種の強迫観念が、すごく気持ち悪く感じる。そして
それを内面化していた自分にも。
 よく駅で、電車が10分こないだけで、駅員につっかかっている客を目に
していた。僕自身も、数分遅れで舌打ちしたこともあった、と思う。事故などで
JRが止まるたび、客が血相を変えて駅員に殴りかかろうとした事件があった
事も思い出す。なぜ、そこまでに時間に厳格さを求めるのか? 
 これは電車に限った事ではない。宅配時間の「翌朝○時厳守」などの厳格さ、
大企業への24時間以内の納品厳守、などの、いろいろな「納期」という厳しさ
にも通じると思う。なぜ、ここまで時間にコントロールされねばならないのだ
ろう? この論理を内面化させているのは、どういう力が働いているのだろう?

・「個々の個人、会社“だけ”の責任なのか?」
→何かの問題が日本において生じた時、マスコミは手のひらを返したように、
問題を起こした企業や個人の責任を追及する。時にはまるで「あら探し」で
あるかのように。たしかに「あら」は出てくる。だが、その「あら」に原因を全て
押しつけて「それ見たことか!」と大岡裁判をしている、その裁判の根拠は、
いったい何なのだろう? 私はこいつ、この企業とは違う、という高みの見物
のような「傲慢さ」を報道に感じるのは僕だけなのだろうか? もっというと、
悪いことをした会社の記者会見時の、一部マスコミ記者の偉そうな突っ込みを
耳にすると、「あんたがそんなきついことを言える立場か?」とすら思うのは、
僕だけなのだろうか。
 確かに運転手もJR西日本も悪い。それは事実。でも、急がせたのは、少し
でも遅れたら文句を言い、抗議をする客なのではないのか? だから乗って
いた客が悪い、というのではない。じゃなくて、傍観者然として、高みの見物を
していて、違う場面では駅員に怒鳴っていて、この問題発覚後はJRに対して
ひどいと感じている(かもしれない)私たち自身にも、この問題の根本原因は
ないのだろうか? それを棚上げして、誰かを血祭りに挙げても、気は済むか
もしれないが、解決策とは言えないのではないか?

繰り返すが、JRの安全軽視、モラルのなさ、は言語同断である。事件後の
同じ日に車掌区でのボーリング大会があった云々を見ていると、JR職員
自体がこの問題を「他人事」と考えている姿勢に、あきれて言葉も出ない。
だが一方、自分がもしJRの職員、この運転士だったら、同じミスをしなかった
のか、と言われると、その自信がない。そういう「自分事」として、事故を起こした
会社や社員の問題を構造的に捉えない限り、他人事としての「いじめ」のような
報道は、接していてすごく嫌な気になってしまう。

まだまだモヤモヤしている部分が、言語化出来ない部分がある。
もう少し言語化できたら、再度書いてみようと思う。

投稿者 bata : 2005年05月05日 13:13

コメント

たしかにJRタタキっぽいところはありますね。
運転士も死亡してしまったので怒りの矛先がないということでしょうが。
ただ、遺族はともかく、マスコミがそうなのはどうかと思いますね。
この件に限らず、単に世論の尻馬に乗っかっているだけのように見えて仕方がないです。

ただ、1,2分の遅れに対する時間感覚は、実は利用者の問題ではなく、企業側の問題だと思われます。
鉄道にしろ、宅配便にしろ、差別化のために「時間」というものを利用したところに原因があると思います。
たとえば、バスを利用するときには10分程度の遅れは許容する人でも、鉄道ならば5分でも我慢ならないということがあります。それは、鉄道は1,2分の誤差すらなく時間通りにくるという事実の積み重ねから生まれた認識であって、もとから1,2分の誤差はあたりまえの鉄道であれば、バスを利用するときのように余裕を持って移動するし、怒りも湧かないと思います。

民間企業として、他者との競争のために定時運行を重視するのはいいのですが、その結果、利用者はそのように教育され、「定時運行はあたりまえ」だと思うようになるのです。
そのため、さらに差別化を図ろうと、無理なスピードを要求して安全を犠牲にすることになったのでしょうが、そこで「安全を犠牲」というタブーを犯さずに、違う方向へ考えを向ける柔軟性がなかったのがJRの問題だったのでしょう。
「遅くても快適な電車」といった方向にも持っていけたのではないかと思います。

そして、今回の事故の最大の問題は、利用者の定時意識ではなく、ミスを取り繕うとする意識を呼び起こすシステムにあったと思われます。
通常の遅れならばいざ知らず、今回の場合は、オーバーランという通常の範囲外の事件による遅れですから、そのミスを取り繕おうとせずに、自らの責任として制限速度範囲内で運行して、遅れに対する乗客の非難は甘んじて浴びるべきだったかと思います。
定時運行をサービスとして謳っている以上、乗客の怒りはもっともとして、乗務員は頭を下げればいいわけです。
ただ、上司はそのミスをとがめるものの、安全に列車を運行したことには評価を与えるといったシステムは必要でしょう。また、遅れの挽回度合いから、制限速度を超過したこともある程度は割り出せるはずですから、安全を犠牲にした挽回にたいしては、さらなるペナルティを課すということで、無謀な回復運転を抑止することも可能でしょう。

もともと実現不可能に近い綱渡り的なダイヤフために生じる遅れまで、運転手個人の責任として現場に押しつける体制と、運転手自身がミスをミスとして認められない(認めたくない)状況に陥れる過度に過酷な再教育が、最大の問題点でしょう。

ミスを取り繕おうとして、さらに大きなミスをしてしまうのはどの世界でも同じでしょうから、そういう意識を働かせないような管理システムにするべきでしょう。

投稿者 webmaster : 2005年05月05日 21:29

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