2008年08月21日
怒りからの気づき
猛烈に今、腹が立っている。
何に腹が立っているのか。それは、今、羽田空港からの帰りのバスの中にいるのだが、1時間、バスはほとんど動かない。石和の花火大会終了直後に巻き込まれ、全く身動き出来ないのだ。ただ、勘違いしないでほしい。この渋滞そのものは、確かにうんざりするが、それに腹を立てているのではない。腹が立つのは、この花火大会がある、という事実を、僕はバスに乗って運転手に言われるまで知らなかった、ということだ。空港で乗る前に教えてくれていたら、絶対に「あずさ」を選択した。後出しじゃんけんの様に、バスに乗った後になって「ご承知のように今日は花火大会があるので、石和以後、甲府竜王方面は相当に到着が遅れると思います」と言われ、しかもそれ以外の選択肢が奪われていること、このことにものすごく腹を立てているのだ。そして、ふと気づいた。この怒りは、あの怒りと同じだ、と。
火曜日朝一の飛行機で帯広に行き、水曜日は往復6時間かけて浦河まで遠征し、駆け足で2泊3日の調査に出かけた。久しぶりに師匠の取材に同行させて頂き、帯広と浦河、という、日本の地域精神保健を変えた二大先進地に出かけ、先駆者達のお話に耳を傾けたのだ。この二つの先進地の最大のポイント、それは「当事者の声に基づいた支援づくり」である。精神病という病のつらさ、だけでなく、この病を持つことによって様々な生活のしづらさ、人間関係のしんどさを抱えて生きている人に、どれだけ寄り添い、そこから支援を展開できるのか。この二つの地域はそのことに、真正面から向き合ってきた。そこで向き合った内容の一つに、前段で書いた僕の怒りと共通する怒りがあるのではないか、と思う。では、どういう点で、精神病者の方が感じたであろう怒りと僕の今の怒りが共通しているのか。それは、「理不尽なこと」というカテゴリーだと思われる。
突如襲った絶望的な現実。しかも、対処する術が、その時点でない。ただそのことを「諦め」るしかない。回避したり、被害を最小化する術もあったかもしれないが、この状態になった後にそう言われても、どうしようもない。怒りの持って行きようもない。とにかく、閉ざされた空間で、ただただ諦めて待つしかない。
ただ、僕の場合、この待つということも、所詮1,2時間程度の、終わりがある「待つ」である。この1時間で、1キロも進んでいないこと、そして抜ける術がないこと自体は本当に腹立たしいが、後1時間もすれば抜けれる(はず)である。終わりが見えている。しかし、精神病の場合、一過性のものではない。いつまで持続するかわからない不安。ずっと奈落の底に落ちていくのではないかという焦燥。以前の自分に戻ることが出来ないのではないかという絶望。それらが合わさった怒り。そんな理不尽の渦の中に放り込まれたのなら、どれほど激しく怒り、どれほど深く絶望するだろう、と考えてみる。それで僕自身の怒りが収まる訳ではない。だが、こんなもんじゃない怒り、とはどれほどのものか、と思うとき、その怒りに寄り添うことの意味合いをすごく感じてしまうのだ。
僕が今、ここで相当に怒っていることの理由として、お腹がすいていること(なんせもう夜10時だ)、疲れていること(二泊三日の強行軍の疲れが一気に出ている)、抜け出せないこと(バスから降りれない)、1人でいることなどが挙げられる。精神疾患でも、病気から抜け出せないことだけでなく、不眠や幻聴などで疲れがたまっていること、人間関係にひびが入って1人でいる孤独、働けなくなってしまった場合にはそれに加えて食事も含めた生活の維持に関する不安も重なるだろう。これらの不安が怒りに、そしてやがては絶望へと結びつくのだ。
では、この状態を変えるために、どうすればいいのか。まず、「抜け出すこと」は容易ではない。そもそも、抜け出せないことから、この怒りや絶望は始まっているのだ。では、現実的な対処として、お腹を満たしてほしい、それが無理なら(確かに鞄の中には弁当はない)、まずは「大変だねぇ」と共感してほしい。そう思っていたら、妻から電話があり、愚痴をぶちまけ、多少はすっきりした。そう、浦河も帯広も、精神障害者のしんどい現実に、まずは寄り添い、共感するところからスタートしていた、と今回の取材の中でわかったのである。(疲れているから、少し強引なつなぎに見えるかもしれないが)
セルフヘルプグループ研究の大家の上智大学の岡知史先生は、その著書の中で、セルフヘルプグループの三段階を説明している。同じ悩みや苦しみを持つ当事者同士が集まって、まず自分たちのしんどさを「わかちあい」できることが、出発点だ。その中で、苦しみを対象化し、そこから「ひとりだち」するきっかけが出来てくる。その過程の中で、苦しさや怒り、絶望や諦めといったものから「ときはなち」がうまれる。また、自身を押さえつけていた環境を変えようと、「ときはなち」は社会変革へも向かう。浦河や帯広でみたことも、このセルフヘルプグループの動きそのものであった、とも言える。絶望や怒りの渦の中にいる当事者であっても、同じ渦の中にいるもの同士なら、その苦しさや怒りを含めて共感(=わかちあい)が出来る、というのが、このセルフヘルプグループの最大の魅力であり、入口なのだ。
今、石和の交差点の大渋滞をようやく抜けだし、次は横根の信号までの混雑でまだのろのろ運転だが、多少動き始めたバスの中で、タケバタにはこの怒りを同時期に共感し合う仲間はいない。だが、読み手のあなたと「わかちあう」ことを目指したこの文章を書く中で、少しだけ、この怒りから「ときはなち」が出来、本来の自分の有り様に「ひとりだち」する契機をもらった。なるほど、どんな経験でも、考えようによっちゃあ養分になるのですね。でも、早くおうちに帰って、本物の養分(夕食)にありつきたい。バスは2時間弱の遅れが見込まれながら、少しずつ甲府駅を目指している。
2008年08月18日
時代を超えて変わらぬもの
お盆休みだから、という格別な理由もないのだが、この週末に偶然読んだ3冊は、色んな意味で「戦争つながり」であった。
「『瀬島さんはこれからどういう仕事をなさるんですか』と河野が聞いた。
『国家のために奉公します』
『国家のためとはどういう意味ですか』
『……』
瀬島は黙ったままだった。」(共同通信社社会部編「沈黙のファイル−『瀬島隆三』とは何だったのか」新潮文庫、p298)
元大本営参謀→シベリア抑留→某大手商社会長→政界の「影のキーマン」、と変遷を遂げた瀬島氏の軌跡を辿りながら、第二次世界大戦の前後で、何が変わり、何が変わらずに残ったか、を浮かび上がらせていくノンフィクションの秀作。先の引用は、元関東軍の一兵卒であり、シベリア抑留中に瀬島氏を見たという河野氏が、戦後大気汚染訴訟の原告団として、臨調委員の瀬島氏に「再会」した折りのやりとり。河野氏の陳情に対して素っ気ない瀬島氏に河野氏が迫ったところの一シーンである。
ここに象徴されるように、瀬島氏には「枠組みのために身を捧ぐ」という「枠組み」があった。この枠組みの名称が、天皇、国家、会社…と変わろうとも、枠組みを固守する、という型は、一貫して変わらなかった。そして、この枠組みを守るための戦略というか身のこなしというのが、抜きんでて良いと評価されたため、第二次大戦→抑留のあとも、再び表舞台に立つ。この視点で見ると、個人や社会というより、ずっと枠組みに囚われていた人間の哀しさ、というものが、読後感におそわれる。彼が日本の第二次世界大戦参戦について、「侵略戦争ではない」と言い切ったのも、自身の枠組みの固執のためには、譲れない一線であった、とすれば納得出来る。そして、この枠組みの固執や堅持、は一軍人に限ったことではなかった。
「日本にとってアメリカは、欲望や憎悪の対象ではあったとしても、分析や観察の対象として戦略的には位置づけられてはいなかった。日本はむしろ、『アメリカ』を欲望し続けながらも、『鬼畜米英』の幻想的な標語によって敵国アメリカの実態を視界の外に追いやり、他者として直視することすら避けて内閉していた。」(吉見俊哉「親米と反米」岩波新書、p57)
文化社会学者の手による明治維新から戦後にかけての、日本社会のアメリカ受容と「政治的無意識」に関する考察は、先の瀬島氏を巡る論考の読後に見ていくと、興味深い。思わず「嫌いは好きのちょっと前」という言葉が浮かんでしまう。反米というのは、親米と対極ではなく、むしろ地続きで繋がっている。この切断されない無意識は、枠組みの固持により、敗戦後に急速な経済復興を遂げた日本社会にとっての、大きな固定資産だった。そして、GHQも、この固定資産を破壊せずに、冷戦時代の到来もあって、うまく活用した。その枠組みの固持の結果として、今の日本の繁栄がある。そう考えていくと、個人瀬島氏の戦争責任云々、だけでなく、彼は実に日本的価値観を体現した人、とも捉えることが出来る。つまり、これを書いている僕自身の中にある無意識をも、両書は浮かび上がらせているかもしれないからだ。
で、もう一冊読んだのは、うって変わって実に秀逸なるエッセイ。ただ、ここにも戦争の陰影が見事に記載されている。
「それにしても、人一倍食いしん坊で、まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだが、さて心に残る“ごはん”をと指を折ってみると、第一に、東京大空襲の翌日の最後の昼餐。第二が、気兼ねしいしいたべた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとおかしくなる。
おいしいなあ、幸せだなあと思って食べたごはんも何回かあったような気がするが、その時には心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあとに残らない。
釣針の『カエリ』のように、美しいだけではなく、甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死にかかわりのあったこのふたつの『ごはん』が、どうしても思い出にひっかかってくるのである。」(向田邦子「父の詫び状」文春文庫、p92)
このエッセイは、もう10年以上前に古本屋で買いながら、全くその後ご縁がなく、本棚に「積ん読」状態のまま、京都→茨木→神戸→甲府、と居住地を変えてきた本だ。何の気なしに一昨日手にとってみて、グッと引き込まれていく。情景がこれ程までに目の前に浮かび上がるエッセイも珍しい。昭和の戦中・戦後の、僕が全く経験していないはずの食卓が、本当に具体的なディディールとして浮かび上がってくる。そんな珠玉のエッセイの中でも、10代に終戦を迎えた著者ゆえに、戦争の経験がそこかしこに出ている。だが、決して告発調でも、厭世的でもない。その時代を生き続けた著者が変わらず持ち続けた庶民としての視点から、食にまつわる記憶が紡がれる。ただ時折、「釣針の『カエリ』のように」、読み手をも引っかけてくるフレーズに、心を捕まれるのである。
同時代的な内容の読書だけでなく、時代も文脈も超えた内容にアクセスすることの大切さ(そして面白さ)をかみしめていていた週末だった。
2008年08月12日
書棚と頭の整理
週末の行脚のあと、月曜日には真面目に大学に。
前日夜、新大阪駅構内で買い求めた551の餃子を肴にビール→白ワイン→グラッパと深酒をしていたので、少し二日酔い気味だが、約束があるので、よろよろ出かける。その約束とは、そう、学生さんにお手伝いを頼んで、半年以上ぶりに、研究室の大掃除をすることになったのだ。
そんなの一人で出来るでしょ、という声に対しては、ただただ、すんません、と答えるしかない。ただ、僕は昔から、部屋の整理が大の苦手。リスか何かのようにモノは溜め込むのだが、そのうち溜め込んだことをすっかり忘れ、溜め込まれたモノは部屋のあちこちに沈殿している。ゆえに、大掃除というと、そういう沈殿していたモノが日の目を見ることになる。「あ、こんな資料があった」「こんなのもとっておいたんだよねぇ」と、作業をやめる「言い訳」が一杯準備されているのだ。そして、色々読み始めたら、手も足も動かず、結局何も片づかないで過ぎてしまう、という悪循環に陥る。ゆえに、「次どうするんですか?」「これは捨てるんですか?」と急かされながら、渋々モードで進めないと、部屋は片づかない。ま、お陰でかなり片づいたのですが。
この前期は、他大学で初めての講義を持ったり、あるいはある研究グループは報告書作成の時期だったり、他の研究会で新たなジャンルに挑戦したり、と様々な事が重なったので、部屋の中も書架も、ぐっちゃぐちゃだった。多少はお勉強した痕跡、というか、戦った日々の残骸が部屋のあちこちにバラバラに散らばっている。まだ採点業務は残っているが、一方で夏休み中にしたい研究を、と考えるにあたっては、まずはこの前期の残骸を処分して、心機一転するしかない。もともとそう考えていた訳ではないが、部屋を片づけているうちに、やはり書架の整理をやるしかない、とわかって、心機一転モードに切り替わっていく。
本棚や書架の整理、というと、大きく分けて二つのやり方があると思う。例えば上野千鶴子氏や、うちの大学のM先生など広範囲をカバーする大蔵書家は、ジャンルも区切らずアルファベット順で整理しないと、収集がつかないそうな。しかし、まだ蔵書数がたいしたことない僕は、分野ごとに固めておいている。両者を比較すると、アルファベット順ならば、その著者の名前を思い出さないと見つけ出すことは出来ないが、ルールは機能的で整然としている。その一方、ジャンル別なら、大体このジャンルの本は、と見当がつきやすい一方、当時のジャンル設定と今の自分の気持ちが別なら、あるいは単に元の場所に戻さなかったら、当該図書は発掘出来ない危険性がある。最近、どうも本を探し当てられないことがある僕も、アルファベット順に対する興味があるが、しかし全ての著者の名前を覚える自信がなくて、分野ごとに固めておく、ということをしている。すると、蔵書数が増えたり、仕事の区切りの際には、本棚を入れ替える必要があるのだ。
で、前期の仕事がとにかくおわり、まずは机に一番近い棚に占めていた、福祉政策やノーマライゼーションに関する文献のグループを元の位置に戻していく。どちらも、講義の為に必要な文献グループだったのだが、特にノーマライゼーションのグループについては、講義を進める中で、学生とのやり取りに対応する為にも、施設福祉の文献も沢山途中で追加していった。ゆえに、講義が終わった後、新しいコーナーを作って、ノーマライゼーションと施設福祉・地域移行といった一区画をつくる。そして、前期の途中で学会発表したテーマについて、この夏もう少し調べて、別の学会発表につなげたい、と思いながら本を並べ直していると、別の区域においておいた数冊が、そのジャンルに関係している、と整理の中で気づいたりする。
つまり、ある区切りの段階で、改めて本の背表紙という現物を眺めながら、新しい文脈・関連づけを作り直す作業をしているのだ。一冊一冊は固有の主張をしていても、その本と本との間の関係性、自分が捉える意味づけを、自分なりに捉え直し、新たに定義づけ直して、書棚に新たに納めることによって、価値づけていく。書棚の整理は、主に動かすのは身体だけれど、やりようによっては頭もフル回転させ、そして次の仕事への原動力になっていく。これは大変だけれど、意義深い。
あと、本棚だけでなく、部屋を整理していると、一区切りがつき、新しい気持ちになれる。その感覚は、だいぶ前に読んだ「ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門」(カレン・キングストン 著、小学館文庫)に触発されているのかも知れない。風水整理術、というと、何だか胡散臭いと思う人もいるかもしれないが、著者の主張はとてもシンプル。ゴミだめのような部屋には悪い運気が流れる、きれいにすると、よい気が流れる、というもの。気の科学的存在の是非はさておき、実際部屋が汚いと、仕事をする気にならない。その本を読んで以来、焦っているとき、落ち着かない時、いらいらする時、やる気が出ない時は、とにかく部屋を片づけてみる。すると、気の流れ、もあるのかもしれないが、単純作業に集中する事によって、雑念のとらわれを追い出すことが出来、結果的に切り替えや場面転換が出来るようになったのだ。我が家ではこの本に感化されて、家人共々、以前よりはモノを捨て、甲府に引っ越してきた時よりは少しは整理がついてきたと思う。
とここまで書いてみて、ハッとこの自宅の仕事部屋を眺めてみると、雑然としていて汚い。せっかく昨日、大学で新たな関連づけを果たし、発掘した本も持ち帰ったのに、これでは仕事にならない。さて、昨日に引き続き、今日は自室の整理から始めますか。
2008年08月10日
骨太に二分法を超えるために
昨日は大学院時代の同窓会。言い出しっぺ故に「実行委員長」になってしまったので、司会進行役に徹してゆっくり昔の仲間と話すチャンスはなかったのだが、参加者から帰りがけに、あるいはメールで「参加してよかった」、と言われると、何だか嬉しい。こういうまさにボランティアの集いは、企画から実現まで結構面倒くさいことも沢山超えたけれど、参加者からの「ありがとう」という言葉に救われる、典型的な「やりがい」という名の報酬が得られる結果となった。
で、二次会の後、美人滋賀コンビの二人と京都まで新快速でご一緒し、久しぶりに実家に帰る。身体は結構疲れているのだが、何だか話したりない。司会でぺらぺらしゃべったが、そういうのじゃない、話、がしたい。そんな時、ひょんな弾みで、最寄りの西大路駅の近所に1人暮らしをしているナカムラ君を思い出す。もしかして、と思って電話をしてみたら、なんとお暇なそうな。ありがたや。早速駅前の本屋に呼び出してしまい、近所の焼鳥屋のカウンターで1時間ほどウダ話におつきあい頂く。同窓会は企画屋モードで、二次会含めて話し込むモードになっていなかったので、ナカムラ君とウダウダ話すうちに、ようやく、しゃべりたいモードが落ちついてくる。夜中なのに急に話につきあってくれて、旧友のナカムラ君は、感謝!多謝!
で、ナカムラ君と待ち合わせの、駅前の本屋で手に取った本は、今日の移動時間の間に、最近のもやもやを整理するための一助となった。
「宗教学は客観性を強調する。そこで言われる客観性とは、対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つことを意味しない。ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくことが、宗教学には求められる。その意味で、宗教学は自分という存在のすべてが試される学問なのである。」(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p265)
オウムバッシングで大学を辞職に追い込まれた宗教学者。そういえば最近著作を割と出しているよなぁ、と思いつつ、今まで読んだことは無かった。そこで文庫だから、と手にとってみたのだが、結構おもしろい。自身の師から何を受け継ぎ、自分自身がどのようなイニシエーション体験をし、それを基にどう宗教学を教え、考えてきたのか、という筆者の遍歴を垣間見ることが出来る。対象領域が違っても、独自の視点で考え続けた先人の学びの軌跡を辿る本からは、後人が学べる部分は少なくない。そして、上記の引用部分は、宗教学を福祉社会学なり社会福祉学なりに入れ替えてみると、まさに自分自身にも当てはまる。
最近とみに思うのだが、山梨に引っ越してから特に、「対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つ」だけではいられなくなってしまった。福祉政策という「対象」に対して、研修やアドバイザー、そして県自立支援協議会の座長など、気がつけば「当事者」性を持つようになってきた。その際、研究者として大切にすべき「客観性」とは何か、がよくわからなくなり、ぼんやり考えていた。そんな折りの、この島田氏の整理は、そうだよね、と膝を打つものであった。
「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくこと」、これは宗教学だけでなく、福祉を扱う学問でも必要だと思う。宗教学とアプローチや方法論は違えど、福祉も価値を扱い、かつ人間の生そのものに肉薄する、という点が宗教学と共通しているからだからだ。
最近、特に行政関係からお声がかかることが少なくない。そして、ご存じのように、世の中には行政にすり寄る、いわゆる「御用学者」なるものがいる。そういえば、件の島田氏もオウム真理教に一定の理解を示した、という意味で、「御用学者」とラベリングされた故に、激しいバッシングに遭う。しかし、この島田氏の本の中で、自身の師である柳川啓一氏の本を引用して次のように書いている。少し長いが、引用してみる。
「柳川先生は聖と俗以外の二分法についても暗号解読を試みていくべきだと主張し、『人びとの日常の世界と質を異にする別の世界を想定する二分法の認識にとらわれている所があれば、たちまちわれわれの視界の中に入る』と述べていた。ここでいう二分法には、左と右、内と外、東と西、生と死、子どもと大人、天と地、上と下などが含まれる。
柳川宗教学の立場からすれば、問題は、われわれの意識がこのような二分法によってとらわれている点にある。たとえば男と女との絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方は、二分法にとらわれたものとして宗教学の研究対象になるというのである。
ゲリラとしての宗教学は、二分法に対するとらわれを指摘することによって、結果的には人びとの意識を解放していくことになる。そこにゲリラのゲリラたるゆえんがあるわけで、宗教学の営みは文化的な“解放闘争”としての意味を持つことになる。一つの学問の枠にとらわれ、その方法を絶対化することはセクト主義として、ゲリラ性の対極にあるものと見なされる。」(同上、p252)
ここからもわかるように、島田氏のスタンスは、「二分法に対するとらわれを指摘すること」であった。ゆえに、オウム真理教=何の弁解余地もない絶対悪、という二分法に対しても、その「とらわれ」を指摘した。しかし、当時の断罪的なマスコミ報道の中で、一面的な断罪に同調しない氏の指摘は、白ではない(=断罪しない)、ゆえに黒(=やつらと一緒)という二分法的ラベリングの中に陥った。このあたりは、この文庫化に際して補論として加えられた「私の『失われた十年』」でも言及されている。ただ、この二分法に関する異議申し立ては、森達也氏の「A―マスコミが報道しなかったオウムの素顔」や村上春樹氏の「約束された場所で」などと通じる部分が大きいと感じた。
そうそう、だいぶ回り道をしたが、引用したのは、「御用学者」について考えたいからだ。確かにどの世界にも「御用学者」がいる。例えば早川和男氏も指摘してやまないが、審議会などでは行政の原案にお墨付きを与えるだけの、文字通りの「御用学者」にふさわしい方もおられるのも、一方で事実だ。他方で、だからといって、行政に関わる=「御用学者」というのも、「絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方」そのもののような気がしていた。批判されるべきは、行政に関わる研究者の「関与の仕方」という内容であり、「関与する」という形式のみを指して、「だから御用学者だ」という整理の仕方は、明らかに二分法的とらわれ、と言わざるを得ない。
「御用学者」になることなく、二分法的とらわれから自由になり、かつ客観的に学としてのスタンスを貫くためにどうすればいいか。それが、「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」なのだと思う。対象世界を無批判に肯定するわけでも、全てを批判するのでもない。文字通り是々非々を貫くために、「ぶつかり合い、火花を散ら」し続けることが「本当に客観的といえる見方を確立していくこと」につながる。ただ、これは確か早川氏が書いていたことだと思うが、審議会など行政という「対象」と関わると、その相手の論理がわかる故に、気がつけば、その相手の論理に取り込まれる可能性は少なくない。つまり、ミイラ取りがミイラになる可能性がゼロではないのだ。だからこそ、対象の内在的論理をきっちり把握・理解した上で、それでも「対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」をし続けることが出来るのか、が問われているのだと思う。
なるほど、最近もやもやしていたことの内実、自分に問われている内容、のようなものが少しずつわかってきた。では、上記のような骨太な「客観性」を持った人間にどう育つことが出来るのか。とんでもない宿題に気づいてしまったあたりで、ワイドビューふじかわ号は甲府盆地に戻ってきた。
2008年08月09日
二つの裁量
伊勢湾の朝日をホテルから眺める。山梨にはない光景である。もやがかかった昨朝とは違って、今朝の上空は澄んでいて、17階からは伊勢湾ごしに対岸の知多半島をもぼんやり眺めることが出来る。京都の盆地に生まれ育った僕にとって、水平線を眺められる、というのは、なんだか珍しく、故に大好きな光景の一つだ。
昨日は、ご当地の障害福祉に関わる方々の職員研修に関わらせて頂いた。その後、とある若手の自治体職員と話していたら、ぼそっと次のような感想を漏らされた。「目の前の仕事をこなすだけで必死だったけど、福祉の仕事って、理想を持ってやってもいいんですね。」
どれほどの対価よりも、こういう感想ほど、嬉しいものはない。研修って何のためにやるのか、というと、もちろん知識や技術を伝えるのも大切だけれど、一方でその知識や技術を何のために使うのか、という魂の部分、というか、志の部分を伝えることも大切だ、と感じている。青臭いかもしれないけれど、そういう心意気は、ご自身の仕事の方向性に大きく影響している。
福祉の仕事は、特に市町村など最前線で行う業務は、その担当者のやる気や心意気、考え方といった一個人の裁量で、大きく変わる部分がある。これをリプスキーは「ストリートレベルの官僚制」として批判した。確かに、その担当者が「障害者は家族が基本的に支えるものであり、行政サービスはあくまでもどうしてもサポートできない“かわいそうな人”への残余的なものだ」と考えるなら、その人へのサービス支給決定はすごく限定的なものとなる。その一方、「重い障害があっても、この人は地域で自分らしく暮らす権利があるし、それを行政として、限られた財源の中でもどう支えられるかを一緒に考えたい」という気持ちで臨めば、相談支援事業者との連携の中で、何かを産み出すきっかけになるかもしれない。
つまり、行政担当者の裁量は、ポジティブにもネガティブにも働きうるのである。そして、厚労省が「好事例」として全国的に広める事例の中には、こうしたポジティブな裁量を活かした最前線の職員の努力の中から、現場の変革に結びついた場合も少なくない。福祉の世界では90年代以後、「カリスマ職員」という言葉がはやったが、彼ら彼女らの「カリスマ」な理由は、当事者の声にふれあい、自分の枠組みを超え、裁量権をポジティブに発揮して現場を変えてきたことが、滅多にない、カリスマ的な存在であったゆえ、と認識している。
そして、自立支援法の中で、相談支援体制や地域自立支援協議会のような、そういうカリスマ職員が個人的に切り開いてきたネットワークを公的な責任の下で行う「枠組み」が形作られた。だが、私が研修に呼ばれたように、おそらく全国的に、こういう「枠組み」をどう活かしていいのかわからない、という事態は少なくないと思う。これは三重や山梨だけでなく、この前、相談支援従事者初任者研修で訪れた札幌でも痛感したことである。つまり、形作って魂入らず、という事態が、今全国で見られているのだ。
だからこそ、研修の局面で、これまでの障害者福祉の流れを説明した上で、権利擁護やノーマライゼーションをキーワードに、どうして相談支援が大切なのか、を伝える仕事は、重要性を増してくる。その中で、仕事をされる最前線の方々が、自身の仕事にどのような意味や背景があり、どういう方向に向かって、どんな裁量を活かすことが、その地域の障害者福祉を充実するために大切なのか、に自覚的であってほしいからだ。そういう意味では、微力ながらも研修では知識や理念だけでなく、そこに魂を込めようとするし、それが伝わって冒頭のような感想を頂けると、少しはお役に立てた、という実感がわいて、すごく嬉しくなってしまうのだ。
もちろん、だからって図に乗ってはいけないし、乗るつもりもない。こういったことを人前で話せるようになったのは、多くの方々の実践から学ばせて頂いた叡智を、自分なりに受け止め、整理したにすぎない。つまり僕自身が、先人の多くのバトンを引き継ぎ、会場で聞いてくださっている方々に次のバトンを託したにすぎない。そういうバトンリレーの中で、制度だけでなく、魂も引き継がれていくのだ、と感じている。そして、引き渡した僕は、また次のバトンをもらうべく、次の地点に向けて、走りながら考え続けるのだと思う。その中で、時には論文や原稿という形で、時には講演、ある時には授業という形で、後の人にその走りながら考えた事を整理して、伝え、共有していく役割が自分なのかな、とも感じている。そういう意味では、研究者と言うよりは、媒介役としてのメディア的存在であるのかもしれない。
その際に、文字の原義である中間的存在、が「中途半端」にならぬよう、更に勉強せんとまずいなぁ、と思いつつ、これから大阪に向けて旅立つのであった。
