「手段の自己目的化」を超えるために

職場で同僚と、大学の自己点検評価に代表される数値による評価の問題をおしゃべりしていたら、それを小耳に挟んだ科学哲学がご専門の森幸也先生から、「教育効果におけるエヴィデンス主義・実証主義の限界」という論考を頂いた。この論考がめちゃくちゃ面白かったので、ご紹介してみたい。森先生は、大学の授業の評価に関して、次の四つの項目に分けて整理している。

A 授業の個別内容の理解・習得
B 科学論的批判精神の涵養と科学の特質に対する理解
C 社会システムに対する複相的洞察
D この社会内での生きる姿勢、あるいは人間的成熟。さらには共同体への影響
この上で、「教育活動に宿された豊穣性を信じるならば、成果の重要度は、A<B<C<D」であるが、「成果の測定可能性については、A>B>C>D」である、と指摘した上で、「成果の測定可能性」について、次の様な疑義を示しておられる。
「教員が『教育目標とは測定可能なものでなければならない』と錯覚してしまう危惧を捨てきれない」
「エヴィデンスや実証主義は、よりよい教育活動を展開するという目的のための『手段』なのである。方法論を『目的』と錯認する倒錯を侵している」(p10)
これは極めて大切なことを指摘している。
文部科学省は今、補助金や交付金をダシに、大学への改革を次々に迫っている。まあ時代の転換点なのだから、必要な改革であれば、しなければならない、とも思う。でも、彼らが示すのは、数値目標であったりエヴィデンスとして示せ、というものばかりである。つまり、実際にどれくらい達成できたかを数値で示せるもの、を、クリアするように、度々求めている。これは「成果の測定可能性」で、改革の要求をされている、ということである。
だが、教育は「測定可能性」だけで計るものでは、もちろん、ない。AやBの一部は何らかの効果測定で計ることが出来るかも知れない。でも、高等教育機関に最も求められる、「成果の重要度」として最も高いはずの、CやDを評価しよう、ということが、文科省の姿勢からは感じられない。これは、森先生の表現を使えば、「方法論を『目的』と錯認する倒錯」そのものである。
ただ、もっと怖い妄想を抱いてしまう。
それは、文科省はそもそもCやDについては、大学教育の重要性として重きを置いてはいないのではないか、という妄想である。これが僕の妄想であれば良いのだが、以前L型大学とG型大学の分類に関する批判的ブログでも触れたように、文科省は本気でこのようなわかりやすい二分法を採用しようとしたり、あるいは数値目標だけで成果を測れる、と思い込んでいるのだろうか、と危惧する。さらにいえば、普通のL型大学に行くような大学生には、CやDのような人間的成熟はいらない。お上や上司が言うことを黙って粛々と従う、自発的隷従を求めているのではないか、とさえ、疑ってしまう。
森先生は、科学哲学論の系譜を紐解きながら、これを「ガリレオの倒錯」である、という。
ガリレオは、自然界の神秘を数学で解き明かそうとした。これを「実証主義」という。この実証主義は、「自然界から『質』的なものを削ぎ落とし」「自然界を探求するのに、数学的手法の適用で十分」と考えた(p12)。これがなぜ「倒錯」なのか。それを、森先生は次の様に喝破している。
「言い換えると、『自分の方法で把握できる世界こそが、真の世界である』という放漫で倒錯した思考が、ガリレオには宿っていたと思われる。これは『方法論原理主義』の一形態である。(略) 教育成果や教育目標において『実証的に提示しうる事柄のみが大事である』と錯認してしまう『倒錯』と同型の構造が、ガリレオの自然観の中には織り込まれていた。どちらも、『手段』を『目的』と取り違え、『手段』が特権化・絶対化してしまっているのである。」(p12-13)
文科省という役所の「行政指導」のやり方を見ていると、「『自分の方法で把握できる世界こそが、真の世界である』という放漫で倒錯した思考」が見て取れるのだが、これも僕の妄想だろうか・・・。
そして、この倒錯の本質的構造を、森先生はガリレオに基づき、次の様に述べている。
「ガリレオ自身はおそらく、運動理論を確立する際に、そこに哲学的『意味』が混入するのを慎重に避けていたと思われる。アリストテレスの運動論では、『なぜ』運動が起こるのか、を問題にしていた。それに対してガリレオは、『なぜ』とは問わずに、『いかに』運動は進行するのか、という問いにのみ答えようとした。戦略的に、哲学の問いを避け、技術、あるいは数学の問いに課題を絞り込んだのである。その意味で、フッサールがガリレオを『発見する天才であると同時に隠蔽する天才』と評するのも頷ける。」(p13)
ここに至っては、単に文科省批判を超えて、「お役所仕事」への共通性を見て取れる。
僕はアドバイザーとして色々な行政や社協と関わってきたが、役所や社協で働く人の中には、「なぜ」を問わずに、「いかに」をいかに上手に遂行するか、にエネルギーを投入してきた人を沢山見てきた。つまり、何らかの問題なり政策課題について、「法律で決められたからやる」という前提で動き、「なぜそれをしなければならないのか?」「自分の自治体にとって、そのことを行う事にどのような意味があるのか」という原理的な(哲学的な)「意味」の問いをすることなく、とにかく「決められたからするのだ」という「いかに」にのみ、取りかかる人が少なくないのだ。そして、大変残念なら、「いかに」思考のプロは、「なぜ」と結びつかないから、それを「業務」でのみ行い、とにかく「いかに業務として形にするか」に拘る。その施策が対象者・地域にどのような意味があるのか、を考えない。だからこそ、形だけ出来上がっても、実質的に機能しない、成果が見えない施策に繋がってしまう。
このような「なぜ」のない「いかに」が、いかにダメなのか、を散々見てきた。
そういう実感を持つと、文科省のお役人さんたちも、この「なぜ」という「意味」を問うことのない、「いかに」という問いへの埋没の危険性を感じてしまう。そして、そのような動きが、大学教育改革という問題を『発見する天才であると同時に隠蔽する天才』になってしまわないのか、という根本的危惧さえ、抱くのだ。
森先生は、この「いかに」への倒錯や実証主義、客観性への傾倒に、警鐘を鳴らす。
「客観性は、そうした背景を覆い隠し、説得力を持たせる『戦略』である。『この客観性の理想は、科学的であると同時に、政治的なものでもある』。統計的数値の背後に、さまざまな前提条件や価値観が伏在していることを、忘れてはならないだろう。」(p16)
AやBのみで、評価が出来たと思い込んでいる。これは「科学的であると同時に、政治的なものでもある」。「いかに」を遂行する能力を求め、その指示なり政策なりを「なぜ」遂行しなければならないのか、を問う力を養わせようとしないのも、一つの「政治的」な力動、パワーポリティクスが「伏在」している。その「統計的数値の背後」にある、「さまざまな前提条件や価値観」をこそ疑う力が、CやDの要諦である。これこそ、大学教育で最も必要とされている視点ではないだろうか。そして、そのような真の力を去勢する動きこそ、いくらもっともらしい「いかに」であっても、手段の自己目的化、として厳しく批判しなければならないのではないだろうか。
森先生の論考から、こんなことを考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。