みんな!殺すな

先月末、夫婦が知的障害がある長男と無理心中を図ったと見られる事件があった。その事について報じた朝日新聞福島版の中で、遺書の一部が引用されていた。その中で、「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」という表現が引っかかり、今朝それについてツイートしたところ、思わぬ反響があった。まずは、僕のツイートから。

生きている事が「迷惑」なのか? 「迷惑」をかけるなら、「死んだ方がまし」なのか? 地域でふつうに暮らすこと、に対する、構造的な圧力が未だに強い現在の社会構造的な問題でもあるが、それでもやはり「母よ!殺すな」の問題でもある。 http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211130009
これに関して、予想外の二つのコメントがあった。
「倫理の問題ということですか?私には、この母親に向かって、殺すなとは言えません。もちろん仕方ないとも言えません。申し訳ないという気持ちです。」
「わかる、わかるがでも夫婦の犯行でも「母」だけが持ち出されるのに違和感。フェミニスト含め母たちは女に子どもを殺させる社会についても問うてきたのに。」
どれも、僕がきちんと情理を尽くして説明していなかった故の誤解である。そして、それに対してコメントを書こう、と思っていたところで、ある他のことに思い至ったので、久しぶりにブログを書いてみることにした。
まず、誤解の多い、『母よ!殺すな』について。
これは、女性にのみ責任を押しつけるつもりで書いたのではない。障害者福祉業界では有名な横塚さんの『母よ!殺すな』(生活書院)のタイトルをそのまま用いたのである。業界内では有名だけれど、このタイトルをご存じない方のほうが多い、という単純な事実を忘れていた。だから、誤解を解くためにも、僕の本からこの本を取り上げた部分を引用しておく。
「1970年、横浜である殺人事件が起こった。障害児二人を育てる母親が、二歳の女児をエプロンの紐でしめ殺したのである。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の不備故に起きた「悲劇」であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起こった。これ対して、神奈川県の脳性マヒ者の当事者会「神奈川青い芝の会」は、強い異議申立をする。当時のその会の中心人物の一人であった横塚はその理由をこう振り返っている。
『普通、子どもが殺された場合その子どもに同情があつまるのが常である。それはその殺された子どもの中に自分をみるから、つまり自分が殺されたら大変だからである。しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。(略)今回の事件が不起訴処分または無罪になるか、起訴されて有罪となるかは、司法関係者を始め一般社会人が、重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である。障害者を別の生物とみたてて行う行政が真の福祉政策となるはずが無く、従って加害者である母親を執行猶予付きでよいから、とにかく有罪にすることが真の障害者福祉の出発点となるように思う。』(横塚二〇〇七、八〇-八一頁)
殺された障害児よりも殺した母親の方に同情が集まり、減刑を求める動きが拡がった。この動きに対して、「とにかく有罪にすることが真の障害者福祉の出発点となる」という強烈な主張は、当時の日本社会の支配的言説(=ドミナントストーリー)と真っ向から対立するものであった。だが、その論旨は明快である。障害児だから殺されても仕方ないかどうかは、「重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目」である、という。この二つの人間観、価値観自体が大きな争点である、という問題の捉え直しである。だからこそ、施設を増やすべきだ、国家の問題だ、と論点をすり替え、彼女を無罪放免してはならない、という主張なのである。」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p144-145)
僕が伝えたかったのは、横塚さんが書くように、「その殺された子どもの中に自分をみ」ているか、という問いであった。この無理心中された親子そのものを裁いたり評価したり、を第三者である僕が出来るはずもないし、その意図もない。ただ、こういう事件をマスコミが取り上げるとき、「殺された障害児よりも殺した母親の方に同情が集ま」るような表現がなされ続けている。これは、40年経っても全然変わっていない。母も父も辛かっただろう。でも、その子だって辛かったはずだ。
「一人残しても、また皆様にご迷惑かけるだけなので」
遺書に綴られた言葉の中で、一番引っかかるのは、この部分だ。重い障害を持つ人は、「皆様にご迷惑かけるだけ」の存在なのだろうか。そうではないはずなのに、そう思い込んでしまった、思い込まされてしまったご両親。であったとしても、そこで両親の「取るべき責任」は、子どもと共に自死を選ぶ、ということだったのだろうか・・・。
そう考えているうちに、ふと、こういう言葉が浮かんだ。
「みんな!殺すな」
母も、父も、障害を持つこの二人の子どもも、誰だってもっと生きたかったはずだ。なのに、両親が無理心中に追い詰められてしまう社会、そしてその時、「迷惑をかけるから」と、障害のある子どもが道連れにされる社会。それにこそ、NO!を突きつけたい。だからこそ、「みんな!殺すな」なのである。もちろん、これは父親や母親だけの問題、家族だけの問題、ではない。だが、自殺や無理心中という形で「殺す」ことを選ばざるを得ない社会だけは、まっぴら御免だ。改めてそう感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。